Percebes(ペルセーベシュ)という珍味貝

 ポルトガルの話です。私にとって第二のふるさとは、21歳を一人で暮らした初めての外国、ポルトガルです。そうすると、スペインは第三のふるさとになりますが、イベリア半島を分け合う両国は切っても切れない関係にあるように思えます。
 私が初めてリスボン空港に降り立った時、一度の出張に数ヶ月間かけ、当時の私には聞きなれないブラックアフリカ諸国を次から次へと訪問して日本製トランジスタラジオなどの輸出契約を取って回るというスタイルの出張者の一人が、アフリカからの帰路私のポルトガル赴任に合せてリスボン空港に出迎えに来てくれていました。そして、ポルトガルでの重要取引先社長ジュゼ・アルフレドたちが待つ街中の海産物レストランのバルに連れて行ってくれたのでした。この出張者はたまたま私と同じ大学の何年か前の卒業生で社内の契約金額ランキングではいつも首位争いをしているという優秀なセールスマンでした。実は、この先輩の働き振りから社長が今回の私たちの大学への特異な求人を決めたと聞いていました。この出張者とはリスボンで初めて会ったのですが、ジュゼ・アルフレドは私の研修が始まってすぐの頃に日本出張していて面識があり、わかぞうの私の到着を心待ちにしていた様子を顕わに大歓迎してくれました。

 海産物レストランは決して格式は高くありませんが、海老・カニ・貝、高級魚など値段が張る材料が勝負で、格式が高い高級レストランと比べても値段はむしろ高くつく場合があります。私はそのレストランのバルで初めてpercebes(ペルセーベシュ)という一見グロテスクですが海の香りがして独特の歯ごたえがある最高の珍味を知りました。高級な海産物の中でも最も高価なものです。いくつかの爪を張り合わせたような尖った爪先部分の下に黒っぽい色をした長い円筒状の布のような皮膜に包まれた胴体部分がありその皮膜の中に身が入っています。胴体の根元部分が荒波が押し寄せる岩場にくっついて生息している貝の一種だそうです。これを塩茹でしたものが皿に盛られて出てきますが、まず、爪先部分際の皮膜を手の爪で摘まんで小さな穴を開けそこからぐるりと皮膜を剥ぎ取り身を露わにして口に入れ身の部分の先を歯で軽く噛み爪先部分を引き千切って身の部分だけを食べます。最初に小さな穴を開けるのは、皮膜を剥ぐ段階で中の汁が周りに飛び散るのを避けるためです。
 その夜はリスボンのホテルでゆっくり休めると思っていた私は、どれもこれも実に旨くて何種類もの海産物を次々につまみながらビールとワインを何杯も飲みましたが、このあと夜の10時を過ぎてジュゼ・アルフレドと車で300キロも離れたCovilhã(クヴィリャン)へ行くことになっていたとは。ジュゼ・アルフレドのドイツ製高級車にはお抱えの運転手がついていました。夜中に高速で走るとすぐにフロントガラスが曇って前方が見えなくなり、20〜30分置きに車を止めフロントガラスについた虫の残骸を洗い落とさなければならないことをこの時初めて知りました。途中からジュゼ・アルフレドが運転すると言いだし私も前部座席へ移りましたが、スピードメーターを見ると決して広くなく舗装もよくない真っ暗なポルトガルのestrada(郊外道)を何と時速200キロで走るのでした。若かった私は思いのままに、「I’m always prepared to die. 私はいつでも死ぬ用意はできているよ。」、と言ってやりましたが、彼は簡単に、「Me, too! 私もだ。」、と応えました。

 クヴィリャンに着いたのは夜中の零時を大きく過ぎていましたが、ジュゼ・アルフレドのオフィスの隣に私が泊まるペンションがあり真夜中というのに老婦人が出てきてくれ部屋に案内されました。汚い話で恐縮ですが、私は部屋に入るやいなや、暴飲暴食と疲れとそしておそらくひとりになれた一瞬の安堵感から急に下痢をもよおし、咄嗟にはどこがトイレかわからず、ベッドのそばにあった溜め湯式のビデを「ポルトガルではこんなところに変な形のトイレがあるんだ!?」と、ビデというものを知らなかった私は我慢できずに無理やり勝手な解釈をしてその中にやってしまいました。すぐあと、壁にあった扉を開いてバス・トイレを発見、初日に大失態したことを悟ったのでしたが、疲れと睡魔に襲われながら、後始末にどれだけ時間がかかったことか。
 イベリア半島ポルトガルの北側部分はスペインのガリシア地方といってポルトガル語に近い方言が話されているだけでなく海産物もポルトガルと同じものが採れ、スペインでもこのpercebes(ペルセーベス)が大変珍重されています。マドリッド駐在時代、私は日本からのお客さんの接待には一度は海産物レストランを選びpercebesも必ず食べていただきましたが、殆どすべての日本人にこのグロテスクな貝が大好評でした。因みに、スペインの三大珍味と言うと、私は、この(1)ペルセーベスの塩茹で、(2)ウナギの稚魚をバージンオイルとにんにくと唐辛子で炒めたangulas a la bilbaina(アングーラス・ア・ラ・ビルバイナ、ビルバオ風ウナギの稚魚のにんにく炒め)、そして(3)bellota(ベジョータ、どんぐり)だけで飼育したイベリコ黒豚のアンダルシア地方ハブゴ村産の生ハムjamón ibérico de bellota de Jabugo(ハモン・イベリコ・デ・ベジョータ・デ・ハブゴ)を躊躇なく挙げます。