スペインの歴史 〔 II 〕 − スペイン王国の誕生と大航海時代の世界

 スペイン統一を熱望したカスティージャ王国のイサベル王女がアラゴン王国のフェルナンド王子と劇的な結婚をし、先にイサベルが王位につきイサベル1世となり遅れてフェルナンドが王位についてフェルナンド2世となったことで、1479年、カスティージャ=アラゴン連合王国(後のスペイン王国)が誕生しました。そしてReconquista(レコンキスタ、国土回復運動)が完遂した1492年は、イサベル1世の支援でコロンブスが新大陸(西インド諸島)を発見した年でもあり、西ゴート王国生き残り貴族ペラーヨが起こした小さなキリスト教国がイベリア半島の北端アストゥリアス地方から反撃を開始してイスラム教徒からイベリア半島全土を奪還しただけでなくel Nuevo Mundo(エル・ヌエボ・ムンド、新世界)をも手に入れ世界最強の覇権国へと発展するのです。因みに、イサベル1世とフェルナンド2世はlos reyes católicos(ロス・レジェスカトリコスカトリック両王)と呼ばれますが、イサベルが年上で生涯主導権を握っていたようです。
 時はすでに大航海時代が始まろうとしていました。実は、ポルトガルはスペインより早く13世紀中頃にはレコンキスタを完遂し、1422年以降エンリク航海王子が活躍、アフリカ航路の開拓が始まっていました。因みに、エル・シッドを2度も追放したカスティージャ=レオン連合王国(後にカスティージャ王国に統一)のアルフォンソ6世が、1095年、娘婿でフランス・ブルゴーニュ家のアンリ・ドゥ・ブルゴーニュ(エンリク・ドゥ・ブルゴーニャ)にプルトゥカール伯領を与えたのが、ポルトガルの起源となります。アンリの子アフォンス・エンリクシュは1139年オウリークの戦いでイスラム軍に大勝した勢いから独立を宣言、アフォンス1世を自称し、カスティージャ王国は1143年これを承認してポルトガル王国が誕生しました。 
 バルトゥルメウ・ディアシュが1488年アフリカ最南端喜望峰に到達、イスラム商人を経由しない海路でのインドへの道筋を確かなものとし、1498年、ヴァスク・ダ・ガマが喜望峰経由インドのカルカッタに到達しました。1500年、ペドル・アルヴァルシュ・カブラルは西進してブラジルのバイヤ州に漂着しブラジルを発見しました。しかし、実際には、スペイン人でコロンブスの最初の航海に船長として同行、1492年に西インド諸島を発見したビゼンテ・ヤニェス・ピンソンが、カブラルより3ヶ月前の1500年1月にブラジル北海岸に到達していましたが、彼はこれをインドと思い、カブラルがブラジル最初の到達者として知られています。西回り世界一周で有名なマゼランことフルナン・ドゥ・マガリャンイシュはポルトガル人ですが、1517年、イサベル1世の孫でフェリーペ2世の父にあたるスペイン王カルロス1世(神聖ローマ帝国皇帝カール5世)の支援で航海が実現し、南米最南端マゼラン海峡を経由し1521年フィリピンに到達して戦死、その後、ゲタリア出身のバスク人フアン・セバスティアン・エルカーノが指揮をとりアフリカ最南端喜望峰を経由して1522年スペインに帰還します。因みに、ゲタリアは私がバスク地方へ出張したとき漁港の海産物レストランでよく食事をした町です。
 スペインとポルトガルの間で1494年に締結されたトルデシージャス条約というのがあり、当時はスペインとポルトガルが新世界の発見、新航路の開拓を競争している状況で、この2国でヨーロッパ以外の全世界を二分割する方式を協定したのです。地中海の制海権はまだイスラム勢力に握られていましたが、当時のヨーロッパの王家はすでに親戚関係にあったので、親戚同士のスペインとポルトガルでヨーロッパ以外の世界のすべての地域を分け合う取り決めをしたというほどこの2国に勢いがあった時代でした。これに関連し、1529年にサラゴサ条約というのが両国間で締結されますが、これは地球が丸いことが分かりトルデシージャス条約の分割方式を補足修正したものです。当時、日本は戦国時代(1467-1573年)で、ポルトガル船が種子島に漂着し鉄砲が伝来したのが1543年です。因みに、1580年、スペイン王フェリーペ2世がフィリプ1世としてポルトガル王を兼ね、ポルトガルは、1640年に独立するまでの60年間スペインの支配下に入ります。


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