José Alfredo(ジュゼ・アルフレド)という人

 これまでに何度か登場したポルトガルの最重要取引先社長ジュゼ・アルフレドのことを、大阪の本社ではMr. Nina(ミスター・ニナ)と呼んでいたので私も最後まで彼のことをMr. Ninaと呼んでいましたが、実は、これは正しくなかったのです。彼の正式名はJosé Alfredo Pereira Nina(ジュゼ・アルフレド・プレイラ・ニナ)で、ポルトガルでは、通常、最初にキリスト教聖人由来の名、Joséがあり、その次に王様や著名人由来の名、Alfredoがくるので二つの名があります。そして、父方の姓、Pereiraがきて最後に母方の姓、Ninaがくるので、一般に2つの名と2つの姓で構成されています。姓で呼ぶときは父方の姓を呼ぶのでMr. Pereira(o senhor Pereiraウ・シニュール・プレイラ)が正しかったのです。結婚しても姓名は変わりません。なんと合理的なんでしょう。これらすべてスペインおよびスペイン語圏諸国でも同じです。私はこんなことも知らずにいました。周りの誰もがジュゼ・アルフレドと呼んでいたので正しい姓の呼び方が最後まで分からずに過ごしてしまったのです。彼はMr.Ninaと呼ばれても、なぜか何も言わなかったのでした。
 私にとって初めての外国、その首都リスボンに到着したその夜に、時速200キロの運転で私をクヴィリャンへ連れて行ったジュゼ・アルフレドでしたが、町の名士一族の次男坊であった彼はどういうわけか私のことをすごく気に入ってくれました。クヴィリャンに着いた翌朝から私を連れまわり2日間かけ町の有力者全員と友人に次から次に紹介したので、人口3万人程度の小さな田舎町で、有力者のお気に入りの若い異質な外国人の私は一気に有名になりました。30歳を少し過ぎたジュゼ・アルフレドはお金持ちで頭がよくてカッコイイ、三拍子揃ったプレイボーイでしたが、最初の1ヶ月あまりはずっと私を連れまわし、どこへ行くにもいっしょでした。食事代からホテル代など何から何まで彼が支払い、私はお金を使う機会がまったくなく、リスボンの事務所兼住居も彼が手配していてその家賃や家具代金の立替を精算するのに何ヶ月もかかりました。
 ジュゼ・アルフレドのオフィスには毛糸や編み機の販売商社として大勢の若い女性社員がいました。社長お気に入りの若い日本人の私はみんなの憧れの的になったようでした。あるとき、かわいい社長秘書が映画に誘ってくれたので夜出かけることにしましたが、なんとお兄さんがついてきました。一方、他の女性社員の中にはそのことで涙を流す子達がいたり、また、どうしても会いたがってる子がいるというのでいっしょに行ってみると、なぜか14歳の金髪の女の子がみつ編みのおさげを切り取っていてそれをくれるというのでした。セールスマネジャーのお宅に一度夕食に招待され家族から大歓迎されましたが、その後、16歳の娘さんから熱烈なラブレターが届きました。ラブレターをもらったのは生まれて初めてでしたが。1ヶ月あまりクヴィリャンを基点に編み機のキャンペーンでポルトガル中を回っていた私はクヴィリャンの町にいた時間はそんなに多くなかったのですが、町に帰るともてもてでした。しかし、キャンペーン回りが終わり何もなくリスボンへ寂しく移ったとき、当時日本で流行だったグループサウンズの人気歌手の「いくら大勢のファンに騒がれても何もない孤独」とは、生意気にも、こんなものかなと思ったものでした。
 クヴィリャンでもキャンペーン先でも、日本での食事とは比べ物にならないご馳走を毎日食べることになりましたが、初めての海外経験で余裕がなくどんなものを食べたのか思い出せません。キャンペーン先では販売店がご馳走してくれるケースが殆どでしたがジュゼ・アルフレドが販売店の責任者をご馳走する場合もあり、また、我々だけで旨いものを食べに行くときもありました。もちろん、ジュゼ・アルフレドの勘定で。今でも忘れられないのは、パンとバターの独特の香りと味です。おそらくふすまがたくさん残った小麦粉で作った自然の香り高いほんとうに旨い田舎風のパンでした。バターも自然的な製法によるものなのかこくがあって最高に旨いバターでした。マドリッド駐在になってから家族旅行で一度クヴィリャンへ行ったことがありますが、ホテルの食堂で出されたパンとバターは昔と同じ香りと味がして当時のことが一気に甦りました。
 ジュゼ・アルフレドの兄がファミリーの主要事業である繊維工場を任され、彼は毛糸の販売チャネルをもらい、その商社をベースに何でも新しいことができるポジションにあったみたいです。彼の父親は早めに引退して息子たちに事業を任せ大事な問題には立ち会っているようでした。しかし、私がリスボンを去る少し前になって異変が起こりました。彼となかなか連絡が取れなくなったのです。どうも、詳しいことは不明ですが大掛かりな詐欺事件に巻き込まれファミリー全員が姿を消したということで、その後消息がなくなり、私は時期が来て、あんなにお世話になったひとに何も告げることなくリスボンを去ることになりました。