¡Mojón!(モホン!) − りんご酒シドラの苦い思い出

 英国のパブでは冷えてないビールが出されますが、スペインでは日本と同様ビールはよく冷やして飲みます。スペインのaperitivos(食前酒)としては、偶然の発見から特殊なカビの作用で上品な味に変身したワインの一種jerez(ヘレス、シェリー酒)が有名ですが、実際にはビールもよく飲まれます。
 ヘレスは南スペインのアンダルシア地方Jerez de la Frontera(ヘレズ・デ・ラ・フロンテラ)が産地ですが、りんごが採れる北スペインはcidra(シドラ)というりんご酒の産地です。シドラはアルコール度が低いのでビール同様よく冷やして一気に飲みます。日本ではノンアルコールの三ツ矢サイダーで有名になったサイダーが同じ語源です。
 Azpeitia(アスペイティア)という北スペイン・バスク地方の田舎町に重要な取引先でスペインでは当時有数の丸棒(鉄筋)メーカーがありました。北アフリカリビア国の公団向けに大きな輸出契約が決まり丁度第一船約8千トンを船積みしている時、このメーカーのオーナー社長がシドラの酒蔵レストランに招待してくれました。私は『超』をつけたいほど有能な部下のスペイン人スタッフと二人で出張してアスペイティアの工場と積出港Pasajes(パサへス、州都San Sebastianサン・セバスティアンの工業港)で貨物の状態と船積み状況などをチェックしたのち山の中のようなところにある酒蔵レストランに向かいました。もちろんメーカーの人たちと一緒に。因みに、この耳慣れないアスペイティアという田舎町は、室町時代末期の戦国時代1549年日本へ渡来し初めてキリスト教を布教したFrancisco de Xavier(フランシスコ・ザビエル)とは同志で、宗教改革に対抗して共にイエズス会を設立し初代総長を務めたIgnacio de Loyola(イグナチウス・ロヨラ/写真左)の出身地です。
 夏でもひんやりとしたレストランの地下にはシドラの酒蔵があり巨大な樽がいくつも並んでいました。全員が木製の台のような長い大きなテーブルに着くと、オーナー社長の一声で立ち上がりました。そして、テーブルの全員が片手にシドラグラスを持ち、一列になって"mojón"(モホン)と掛け声をあげながらシドラを飲みに酒蔵を目指し階段を下りていくのが慣わしということでした。「モホン」とは「(シドラで)全身びしょ濡れになる(まで飲みましょう)」といったような意味の掛け声です。シドラの注ぎ方は独特で、片手でボトルを高く持ち上げ、低く下げたもう一つの手にシドラグラスを持ち、できるだけ高度差をつけて注ぎます。酒蔵の場合も、蔵番が樽の小さな栓を抜くとシドラが放物線を描く細い水流となって飛び出し、それを客が手に持ったシドラグラスに受けるというもので、シドラが飛び散り実際に濡れないで済ますのは殆ど不可能でした。

 テーブルの横にはオープンキッチン型の大きなバーベキュー台があり、その上で一切れ2キロくらいある大きな塊のサーロインがいくつも焼かれていました。もう一つのテーブルには若い男女のグループがいましたが、かぼそく二十歳そこそこの若い女性がひとりでこの2キロの牛肉を平らげるのには驚きました。一般に、「バスクの女はよく食べる」とは言われてはいますが。私も大いに飲み大いに食べましたが精々半分の1キロ程度が限界でした。
 たくさん食べるためにたくさん飲むのか、たくさん食べるからたくさん飲むのか、取引先といっても仲間内のような関係、楽しく会話も弾んで実に愉快なひと時を過ごしましたが、酒蔵レストランでの長い夕食会が終わり、私たち二人はサン・セバスティアンのホテルへタクシーで行きました。ホテル着いた時は日付が変わっているというのに、大飲みした勢いから明け方までやっていたホテル内のカジノへ入り、そこでもしつこく飲み続けた後やっと部屋に入るとバタンキューで深い眠りにつきました。
 この早朝、アメリカ空軍のジェット機が突然リビアの主要都市を爆撃するという大事件が勃発したのです。西ドイツでのテロ事件にリビアカダフィ大佐が絡んでいたとのことでカダフィ大佐を狙っての爆撃だったようです。アメリカとリビアが事実上戦争状態になったのでした。朝目が覚めてテレビでこの事件を知った私たちは二日酔いが一気に吹き飛びました。船積みでは傭船契約上所定時間内に貨物の積み込みが終了しない場合のdemurrage(滞船料)発生がいつも大きなリスク要因でしたが、戦争状態発生で滞船料問題だけでなく様々なリスクやトラブルが現実味を帯びて大きく圧しかかったのでした。この時バルセロナでも同時に小型貨物船で3千トンの船積みをしている最中でした。

 これは丸棒10万トンの大契約で、スペインのメーカー3社、3つの積出し港(スペイン:Pasajes、el Ferrol、Barcelona)、4つの荷揚げ港(リビア:Trípoli、Misurata、Derna、Bengasi)が関係するものでしたが、結果的には、その後戦争状態は進展せず、大きな損害を被ることなく契約を遂行することができたのは本当に幸いでした。