ポルトガルの海外領土

 大航海時代にはポルトガルはスペインとの間でヨーロッパ以外の全世界をこの二国で分け合う条約(トルデシージャス条約、1494年)を締結する勢いで、その最大の植民地はブラジルでした。1807年のナポレオン軍侵攻で、ポルトガル王室は一時ブラジルへ逃れリオ・デ・ジャネイロに遷都しますが、ナポレオンが死去した1821年、ジュアウン6世がリスボンへ帰還を果たすと、翌1822年、支配層は王太子ダウン・ペドロを擁立してブラジル帝国を設立、1825年ポルトガルはこれを承認して独立が達成されます。
 これ以外にもポルトガルは多くの海外領土を植民地化しますが、私がアルバイト駐在員としてポルトガルに居たころでも、1970年に死去した独裁者アントニオ・サラザール首相の強い方針でまだ多くの海外領土を保有し続けていました。しかし、1974年のカーネーション革命ポルトガル政府はすべての海外領土の領有権を手放す方針を打ち出します。広大な領地はどちらも赤道以南にある西アフリカのアンゴラと東アフリカのモザンビクです。そして、アフリカ大陸を頭蓋骨と見ると後頭部にあたる西アフリカの赤道以北にポルトガル領ギニアがありましたが、ここで泥沼化した独立運動に対峙していた青年将校や兵士たちが体制に疑問を持ちカーネーション革命の原動力となった経緯があります。そんなことがないと国家が自ら領土を手放す方針など打ち出せないのでしょうが。それとも、それができるのがポルトガルのよさかも知れません。
 ポルトガル領ギニアは1974年に、アンゴラとモザンビクは1975年に独立します。ギニア湾に浮かぶ島国サウン・トメ・イ・プリンシペと大西洋の島国カボ・ヴェルデも1975年独立しました。
 インドではゴアなどのポルトガル領インドは、1961年、イギリスから独立を果たしたインドが併合しますが、ポルトガルカーネーション革命まで領有権を主張続けました。チモール島は西半分がオランダ領、東半分がポルトガル領でしたが、1942年日本軍が一時的に全島を占領、カーネーション革命後独立への動きが加速し1975年に独立宣言が出されますがインドネシアが全土を制圧して併合を宣言、国連はこれを認めず非難決議を採択するも関係主要国は併合を事実上容認、最近の2002年になってようやく独立を果たします。そして、最後が香港の南西70キロにあるマカオです。カーネーション革命後大幅な自治権が認められ、1979年、ポルトガルは中国と国交を樹立、早期返還を希望しましたが、中国は香港住民の動揺を恐れ領有権は主張しながらも返還交渉を先延ばしにし、1984年のイギリスとの香港返還交渉の後、1987年にマカオ返還の共同声明が調印され、1999年12月20日、特別行政区として中国へ返還されました。



【ココのつぶやき】

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