アントニオ・サラザールというポルトガルの独裁者

 スペインでFrancisco Franco(フランシスコ・フランコ、1892/12/4-1975/11/20)が独裁者として長期に君臨していたのとほぼ同じ時期にポルトガルではAntonio Salazar(アントニオ・サラザール、1889/4/28-1970/7/27)が長期独裁体制を維持しました。フランコは軍人でしたが、サラザールは神学校で学び聖職者を目指すも転向して伝統あるコインブラ大学で法学を学び直し、同大学の政治経済学教授を経て政界入りし財務大臣に就任、その手腕が認められ世界大恐慌下の1932年に首相に昇格、そして事故で意識を失う1968年までの36年間首相の座に居続け長期独裁体制を敷くことになります。サラザールフランコに倣いあるいはスペインを防波堤にヒトラーの誘いを撥ね付け頑として中立を守り通し第二次世界大戦の戦禍から国民を守りました。
 私がアルバイト駐在員として初めてポルトガルに到着した2ヶ月後にサラザールは亡くなりましたが、リスボンのテージュ川河口に架けられた1966年開通の長大な橋がPonte Salazar(ポントゥ・サラザール)で、私はこの橋の名から独裁者サラザールの存在を知りました。1968年から後継者マルセロ・カエターノが独裁体制を継承しましたが、1974年4月25日、「リスボンの春」と呼ばれる無血軍事クーデターのカーネーション革命が起こり、スピノラ将軍に権力が委譲され、数年間の政治的混乱を経てポルトガル民主化が推進されます。革命の成功を知ったリスボンの街角は花束で飾られ市民たちはカーネーションを手に兵士たちと交歓したといわれます。そして、革命後、橋の名がPonte 25 de abril(ポントゥ・ヴィントゥシンク・ドゥ・アブリル、4月25日橋)に変更されました。
 サラザールは75歳のとき、リスボン郊外のリゾート地Cascais(カシュカイシュ)で静養中誤ってハンモックから転落して頭を打ち意識不明の重体になります。2年後に意識を取り戻したとき、政権はマルセロ・カエターノに移っていましたが、取り巻きはサラザールに世の中の変化を何も知らせないよう執務室を以前と同じ状態に保全し、偽の新聞まで準備して彼が権力喪失で落胆することがないよう配慮したといわれています。ザラザールは何の影響力もない命令書を書き偽の新聞を読んで余生を過ごし間もなく幸福に世を去ったと言う話です。
 穏健さのなかにも芯の強さを感じさせる国民性のポルトガルらしい話しと思います。スペインの闘牛は、最初にpicador(ピカドール)が槍で闘牛の胴体を突き刺し血を流して興奮させ、次にbanderillero(バンデリジェロ)が走って近づき身をかわす瞬間に両手で2本の矢を背中に突きたてて更に煽り、最後に闘牛士たるmatador(マタドール)が最高に格好よく命を懸けて止めを刺すとうスタイルですが、ポルトガルの闘牛は殺すのではなく、大勢が素手で牛を押さえつけ動けなくなる形を作るというもので、スペインとポルトガルの国民性の違いが実によく出ています。ナポレオン軍の侵攻に対しても、ゴヤの代表作、「1808年5月2日の蜂起」と「マドリッド1808年5月3日、ピオ王子の丘の銃殺」が象徴的にスペインを表現していますが、ポルトガルは王室がブラジルに移りリオ・デ・ジャネイロに遷都します。


【ココのつぶやき】
 昨日の元町につづき、兄ココのおさがりでない唯一チビココ用に買ったコートでオシャレしてグースに来たのですが、友達わんこには会えませんでした。

♪ きょうもてんきがいいのに、このふゆいちばんのさむさのせいか、ほどうのテーブルせきはだれもいません ♪

♪ ともだちわんこにあえないのに、もうひがくれそう、せっかくオシャレしてきたので、ちょっとポーズをつくりますね ♪

♪ どうです、くろもにあうでしょう、これリバーシブルなんですよ ♪

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