レコンキスタの向こう側、イスラム世界の栄華盛衰 [コルドバ編]
キリスト教徒によるレコンキスタ(reconquista、国土回復運動)の立場だけから見ているとイスラム勢力は悪の一枚岩のような錯覚に陥りますが、711年に西ゴート王国が滅ぼされたのはメッカのウマイヤ家が興したウマイヤ王朝(661年−750年)というイスラム帝国最初の王朝のときでした。
その100年前の610年頃にメッカ郊外の山中で神の啓示を受けてイスラム教の開祖となったムハンマド(マホメット、570年頃−632年)がメディナを拠点にアラビア半島を統一したあと、その後継者、正統カリフ(信徒たちの長)が4代続く時代からアラビア半島を越えて領土を拡大し、世襲制のウマイヤ王朝のとき首都をダマスカスに置くインド洋からイベリア半島に至る大帝国となりますが、ここでドラマが起こります。
アッバース革命と呼ばれるムハンマド一族のアッバース家が起こしたウマイヤ家討伐運動で750年にウマイヤ王朝は倒れアッパース王朝が始まりました。このときウマイヤ王家は皆殺しにあいますが、王族でただ一人生き残った当時18歳のアブド・アッラフマーンは身につけていた貴金属を逃亡資金に換えてシリアのダマスカスから母親の郷里、北西アフリカのモロッコに逃れました。
ベルベル人の母親の容姿を受け継ぎ金髪で瞳が緑色であったアブドは、モロッコのベルベル人に温かく迎えられウマイヤ王朝再興の足がかりを築き、逃亡から5年後の755年にはジブラルタル海峡を越えてアンダルシアに入り、翌756年イベリア半島にコルドバを首都とするウマイヤ王朝(後ウマイヤ王朝、756年−1031年)を再興しアブド・アッラフマーン1世(在位756年−788年)となります。
10世紀のコルドバは推定人口50万人を下らない西ヨーロッパ最大、世界でも有数の大都会で、イスラムの支配下での信教の自由が認められ、ヨーロッパ諸国からも留学生を迎え入れ世界の文化、学芸の中心として繁栄しました。コルドバに通称Mezquita(メスキータ)と呼ばれる華麗で巨大なイスラム教モスクにキリスト教の建築が付け加えられた、正式にはCatedral de Santa María(カテドラール・デ・サンタ・マリア、聖マリア大聖堂)という建築物があります。古代ローマの宮殿があった神聖な場所に西ゴート王国時代に聖ビセンテ教会が建てられ、後ウマイヤ王朝になると聖ビセンテ教会をイスラムの礼拝堂であるモスクとして使用、更に、アブド・アッラフマーン1世はその場所にモスクを建設、そして10世紀末に拡張され数万人収容の巨大モスクとなりました。13世紀にカスティージャ王国がコルドバを征服すると巨大モスクは大教会として転用されますが、カルロス1世(神聖ローマ帝国カール5世)の時代に巨大モスクの中央部にゴシック様式とルネッサンス様式折衷の教会堂が建設され、イスラムとカトリックが混在した美しい巨大建築物になっています。
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