スペインの歴史 〔 I 〕 − スペイン民族のアイデンティティ

 民族のアイデンティティを決めるのは肉体的特徴もありますが言語と宗教が重要な要素となります。スペイン人とはどのような民族なのかを知るため、イベリア半島の歴史を少し勉強してみたいと思います。
 イベリア半島先住民族は、紀元前2世紀頃、古代ローマの属領になってから古代ローマ文明による文明化が定着し、紀元後313年にローマ帝国キリスト教を公認して以降キリスト教化が進みます。そして、375年のゲルマン民族大移動の流れの中で、ローマ帝国の属領であったイベリア半島に侵攻したゲルマン民族の一派、西ゴート族が415年西ゴート王国を建国します。332年に西ゴート族キリスト教に改宗しているので西ゴート王国キリスト教国として300年近く続きますが、711年、北アフリカから侵攻したイスラム教徒(ウマイア朝)により征服されます。
しかし、そのとき最後まで抵抗を続けた西ゴート王国の貴族Pelayo(ペラーヨ)がイベリア半島北西部まで逃れ、718年にアストゥリアス王国を建国し、この年から1492年まで実に8世紀近く続くReconquista(レコンキスタ、国土回復運動)と呼ばれるイスラム勢力からの国土奪還の時代を戦い抜くのです。
 つまり、蛮族ゆえに勇敢で武力に長けた西ゴート族が文明化された先住民族を支配した社会が、キリスト教を軸に300年間かけてスペインの原型として熟成されたのが西ゴート王国の時代だったのではないでしょうか。西ゴート時代にキリスト教徒スペイン人としてのアイデンティティがしっかりとできていたからこそ、8世紀近くの長い年月をイスラム教徒との戦いに勝ち抜き、国土奪還と統一国家スペインの樹立を達成するという大事業が可能だったと考えます。
 以下、イベリア半島の先史時代からReconquista(レコンキスタ、国土回復運動)までを概観します。
【先史時代】  マドリッド随一の高級ブティック街がある片側通行のCalle Serrano(カジェ・セラーノ、セラーの通り)を下るとPlaza de Colón(プラサ・デ・コロン、コロンブス広場)のところ左手にLoeweの紳士用品店舗と本店が並び、広場を通り過ぎて右手に国立考古学博物館がありますが、この中の一室にアルタミラ洞窟と壁画が再現されています。実物は傷みが酷くて一般には閉鎖されていますが、マドリッドの殆ど真北の海岸線にある都市Santander(サンタンデール)の西約30キロにアルタミラ洞窟があります。今から18,000〜10,000年前の旧石器時代、現代人の直接の祖先クロマニョン人がこの地で生活していたことが分かります。
【人種的原型】 しかし、スペイン人の人種的起源は紀元前5,000〜紀元前3,000年に東方からきてイベリア半島の地中海沿岸に住みだした出処不確かなイベロ人と、紀元前1,000〜紀元前600年に北方からピレネー山脈を越えてきて北部、西部に住みだしたケルト人、そしてその混血(certiberos、セルティベロス)が主体だといわれています。バスク人も無視できない存在ですが、その言語系統からして出処は全く不明です。85%が血液型RHマイナスというのも謎めいています。

(注)ケルト人とは中央アジアの草原からヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族の一派で、紀元前400年頃にはバルカン半島イタリア半島を除くヨーロッパ中・西部とブリテン諸島(英国・アイルランド)に居住域を広げ、現在、アイルランドスコットランドウェールズの主要な構成民族。

古代ローマ文明の時代】 そして、これらの人たちに文明と呼べるものが定着し始めるのは、古来よりフェニキア人、古代ギリシア人、カルタゴ人との接触もありましたが、古代ローマカルタゴが争ったポエニ戦争(第二次)時の紀元前205年、イベリア半島の地中海側が古代ローマの手に落ちて属領となってからのことです。古代ローマは奴隷社会ですから、先住民の大部分は奴隷のような地位でしたが一部支配階級と移住してきた征服者たちによりイベリア半島古代ローマ文明社会として繁栄していきます。紀元後1世紀にはイベリア半島全域がローマ帝国の属領となりローマ化が促進され、313年にローマ帝国キリスト教を公認して以降キリスト教化が進み、390年にはキリスト教ローマ帝国の国教となりますが、4世紀後半頃からゲルマン民族諸部族の侵攻を受け始めます。
ゲルマン民族大移動】「ミナゴろし」と覚えた西暦375年、アッティラに率いられたアジア系蛮族フン族の侵攻を受けゲルマン民族の一派、西ゴート族は一旦南下して410年旧帝都ローマを一時的に陥落しローマ社会を震撼させ、その後西方のフランス南部からイベリア半島へと移動しますが、これがゲルマン民族大移動の始まりとされています。因みに、395年にローマ帝国は東西に分割統治され、東西ローマ帝国はそれぞれコンスタンティノポリス(現イスタンブール)とミラノ(402年ラヴェンナに移る)を首都としました。
西ゴート王国の誕生】 文明社会の周辺にいた西ゴート族は蛮族ゆえに勇敢で武力に長け、西暦415年、イベリア半島に侵攻、南フランスからイベリア半島を領域とする西ゴート王国を建国します。当初、西ローマ帝国は、キリスト教アリウス派に改宗した(332年)西ゴート族を利用してイベリア半島に侵攻していた他のゲルマン諸部族を排除する目的でしたが、結果的にはその後300年近くにわたり西ゴート王国イベリア半島を支配することになり、西ローマ帝国は476年に滅亡します。西ゴート王国は建国当初フランスのトロサ(現トゥルーズ)を首都としますが、507年フランク族との戦いに敗れると王国の重心をイベリア半島に移し、560年にはトロサからマドリッド南方のトレードへ首都を移します。西ゴート王国が建国された415年はヨーロッパ史で、「文明の花が開いた」古代が終わり「暗黒の」中世が始まる年とされています。教会建築などのゴシック様式とはゴート様式のことで、暗黒の中世を意味する場合があります。
 西ゴート王国は、勇敢で武力に長じていても文化的水準が低い蛮族の西ゴート族が文明化された先住民族を支配する社会で、現代スペイン語をみてもゴート語を語源とする語彙は多くなくゴート族の文化的影響力は大きくなかったといえます。しかし、300年近い西ゴート王国の時代には、当初よりゴート族と先住民の融和が図られ、589年にアリウス派からカトリックアタナシウス派)への改宗も行われてキリスト教を軸に民族間の交流が高まり、騎士道が生まれ、8世紀近いレコンキスタの時代を経て統一国家となるスペインの原型が熟成されました。文化的水準が低い蛮族が文明化された先住民族を支配する社会は中国の歴史で何度も登場しましたが、漢民族の王朝と蛮族の王朝が交代を繰り返した中国の歴史とは異なるものです。 
レコンキスタ(国土回復運動)】 イベリア半島を300年近く支配した西ゴート王国は711年に北アフリカから侵攻したイスラム教徒(ウマイア朝)により征服されますが、そのとき最後まで抵抗を続けた西ゴート王国の貴族Pelayo(ペラーヨ)がイベリア半島北西部まで逃れ、718年にアストゥリアス王国を建国し、この年から1492年まで続くReconquista(レコンキスタ、国土回復運動)と呼ばれるイスラム勢力からの国土奪還の戦いが始まったとされています。ペラーヨは722年のBatalla de Covadonga(バタージャ・デ・コバドンガコバドンガの戦い)でイスラム軍に記念的な勝利を果たし、以降アストゥリアス王国は領土を徐々に拡大して行き、914年首都をレオンに置きレオン王国と称するようになりますが、961年、配下のカスティージャ伯が独立してカスティージャ王国が誕生、後にレオン王国を併合します。西ゴート王国アストゥリアス王国レオン王国→カスティージャ王国の流れです。
 そして、イベリア半島の統一を熱望したカスティージャ王国のイサベル王女は、イベリア半島東部と地中海を支配下に置きつつあったアラゴン王国のフェルナンド王子と、従姉弟でしたが結婚、1474年父王エンリケ4世の死でイサベルは先に王位につき、1479年にはフェルナンドも父王フアン2世の死で王位を継承、晴れてカスティージャ=アラゴン連合王国(後のスペイン王国)が誕生しました。その後はとんとん拍子で、1492年にグラナダを陥落してイベリア半島からイスラム勢力を一掃しレコンキスタが完遂、同年にはイサベル女王の支援でコロンブスが新大陸(西インド諸島)を発見、1571年にはフェリーペ2世がレパント沖海戦でイスラム艦隊を破り地中海の制海権を得て、現代まで続く西欧文明の世界支配の始まりとなります。


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