バスク人アドバイザー

 フィリッピンに嘗てのスペイン系三大財閥の一つが鋼板の圧延工場を保有していて、その工場長としてスペインから迎えられたバスク人エンジニアが、その工場が日本の高炉メーカーから大量に輸入するホットコイルと呼ばれる鉄鋼の中間製品購入の実質的な決定権者で、その公平さと人柄の良さから日本の高炉メーカー幹部や商社幹部の間でも評判が高い人物でした。彼は10年間フィリピンで工場長を務めた後、子供の教育問題もありスペインに帰国することになりました。そのとき、北スペインバスク地方サン・セバスティアンにある自宅をベースに働くことを条件に私たちの会社のスペインのアドバイザーとして顧問契約を結ぶことになりました。その経費の大部分をロンドン支店鉄鋼課が負担、残りをスペイン側が負担する形だったので、私の前々任者のときから実質的にマドリッド鉄鋼課のアドバイザーのような関係で、私も出社するとまずアドバイザー氏の自宅に電話を入れ情報交換をしてからその日の仕事をスタートするような毎日でした。
 アドバイザー氏は当時スペインで卒業が最も難関といわれた二つの工科系大学(ビルバオバルセロナ)の一つビルバオ工科大学の出身で、大企業幹部はこの二つの大学出身者が多く、アドバイザー氏は特にバスク地区の有力企業幹部のビルバオ工科大学出身者には強力なつながりを持っていただけでなく、同大学出身者というだけで一目を置かれる存在でした。
 私には有能なスペイン人というよりバスク人スタッフがいて、アドバイザー氏を入れた私たち3人はいつも相談してビジネスに対処するだけでなく親密な友達であり仲間で、私にとってスペインで誰よりも信頼し信用できる間柄でした。アドバイザー氏は英語力を維持したいといって私たち日本人駐在員とは英語で話し、3人のときはスペイン語となりました。アドバイザー氏がマドリッドへ来たときはよく3人で事務所近くのバルへ行き、話題が尽きず3時間、4時間と話し続けたものでした。 
 アドバイザー氏は若いころに飛行機事故に遭遇したことがありそれがトラウマとなって飛行機には乗れない人でした。フィリピンから日本へ出張するときはもちろん船、スペインへ帰国するときは豪華客船でのクルーズ旅行だったそうです。ロンドンの鉄鋼課との打ち合わせにアドバイザー氏が参加することがありましたが、私は彼に付き合い、サン・セバスティアンまで飛行機で行きそこから彼が運転するベンツでロンドンまで1,300キロのドライブでした。ロンドンに2泊するだけでこの距離を平気で往復する60歳代後半の彼のエネルギーには感心したものです。マドリッドからサン・セバスティアンまでの飛行機は30人乗り位の小さなプロペラ機で空港はサン・セバスティアン郊外のFuenterrabia(フエンテラビア)という彼が住む綺麗な町にありました。フエンテラビアの空港は滑走路が国境沿いにあり離着陸するときは川の向こう側にフランスがよく見えました。因みに彼の家は、スペインの世界的プロゴルファーJosé María Olazábal(ホセ・マリア・オラサバル)の出身ゴルフ場の中にある豪邸でした。バスク地方の取引先を訪問するときはいつも彼が空港まで迎えに来てくれ彼の車で移動しました。フエンテラビアからフランス国境まで車で10分くらいでいけるのでサン・セバスティアンより近く、時間があるときはよくフランスへランチに行きました。フランス側もバスク民族の地域だったので彼にとっては自分のエリアでした。彼はスペイン人としての誇りが高い人でしたが、スペインの生活水準、そしてスペイン人の民度というか振る舞いやマナーなどはフランス人より劣ると認識していて、スペイン国内では車の灰皿に溜まった吸殻をドアを少し開けて道路わきに捨てるような悪癖まであるのに、フランスに入るとわざとらしいくらいに運転マナーがよくなる奇妙なところがありました。アドバイザー氏には彼独特のプライドがあり自分の考え方や生き方、行動を変えない頑固さがあったと思います。
 私の有能なバスク人スタッフには何度も外国系商社などからの引き抜きがあり、また、日本商社の現地採用では昇進は限られていたので、彼から何度も退職の申し出がありましたがその都度何とか引きつないできました。しかし、私の後任者が来て私が不動産専任となり後任者の下で働くことになると、半年も経たないうちに、「私に対する義理は果たしたので」といって彼は独立することを決めました。そのころまでには彼は、スペイン電炉メーカーの雄に成長していたAzpeitia(アスペイティア)の電炉メーカーのオーナー社長からその能力を買われ絶大なる信頼を得るようになっていて資金的にもいくらでも支援が受らけれる状態にありました。この厳しい経営者であるオーナー社長の目はその親族や周囲の人物と比較して能力、実行力において歴然とした差を見抜いていたようでした。彼は自分の会社を設立し、それまでのスペイン鉄鋼輸出の業務をエージェントとして請け負う形で継続することになりましたが、その条件交渉の過程でどうもアドバイザー氏が会社よりの立場で動いたようで、彼にとっては、厳しい状況にあるとき信頼してきた友人に裏切られた思いから、友人だっただけに絶対許せないとして一時は完全に絶交し、二人の関係に大きなヒビが入りました。私は鉄鋼担当に戻ってから二人の関係を何とか修復しようと無理やり同席させる機会を何度も作り、思うところをぶつけ合ってわだかまりを解消するよう説得しようと努めましたが、お互い冷たい会話しかせず、結局、あまり改善がないまま私は日本へ帰国することになりました。仕事ができる人間は時に頑固すぎるところがあるものです。
 私が日本へ帰国して数年後、突然彼から国際電話があり、それはアドバイザー氏が亡くなったとの連絡でした。そのとき、彼は大勢の関係者に連絡を取り故人と最も親しかった友人として未亡人になったアドバイザー氏の夫人と家族のために駆け回ったようでした。アドバイザー氏が亡くなってやっと彼は許すことができたのでした。




♪ わーい、きょうはクイーンズスクエアであさマックだ、はやくいこうよ ♪











♪ マックへついた、ひさしぶり、はやくたべようよ ♪












♪ ママおそいな、はやく、はやく ♪










♪ あさマックがきたきた、うれしいな ♪
♪ といっても、ボクはドッグフードだけどね ♪









♪ モグモグ、マックでたべるドッグフードはかくべつだな ♪











♪ やっぱ、たべおわるとさびしくなるな、いつも ♪












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