ニューヨークのアミーゴ

 旅の資金を作る必要に迫られた私は、マドリッドからニューヨークに飛び、マドリッドで知り合った元料理人O君の紹介で翌日から彼といっしょにウェイターとして日本レストランで働き始めました。レストラン2階のタコ部屋のようなところにみんなと雑魚寝し、お金を稼ぐためだけの生活でしたが、仕事はすぐに覚えました。たくさんのテーブルを相手に英語でテキパキと注文をとり、誰が何を注文したかを覚えて調理場に注文を伝え、できた料理をテーブルに運び食べ終わった食器を下げ、客の視線と出入りに常に注意を払いながら、ニューヨーク州税7%をすばやく計算して勘定も担当する有能なウェイター振りで、自分でも意外な才能を発見した思いでした。
 日本から来ていた正式採用の料理長とすし職人以外は私を含めヨーロッパから流れてきた非正規社員3名の計5名に、オーナーとその家来のような正社員1名が時々応援(あるいは監視)に来る体制でしたが、非正規社員は観光ビザなので不法就労でした。ですからアメリカ水準ではおそらく非常に安く使われていたと思いますが、それでもリスボンで正規の駐在員としてもらっていた給料の何割も多く、当時まだ貧しかった日本の一流企業の初任給の5倍以上だったのです。現在の日中の賃金格差のようでした。
 O君と私以外のもう一人の非正規社員Oさんは皿洗い役で私より数年先輩、大学をでたあと規定路線を進むのに抵抗を感じ何かを求めて日本を脱出し北欧へ行き、そしてニューヨークへ来たのでした。当時、ニューヨークは賃金が高いだけでなく世界No.1のものがたくさんあり、どんなところか一度は暮らしてみたい魅力がある街でした。私にはニューヨークを知らずして世界は語れないとの思いもありました。ニューヨークには北欧から流れてきた日本人若者も相当数いたようで、そんな中にOさんの知合でアミーゴと呼ばれる人がいました。彼はスペイン語ができるわけではないのにいつも、「アミーゴなぁ〜.....」で話し始めるのでそう呼ばれていました。中南米の旅行経験もあったのです。
 私より少し年上の彼は、大柄で意見がはっきりしていて断定的な話し方をするのですが、言葉の端々に人柄のよさが溢れでるタイプで北欧からの流れ者仲間のみんなから好かれ、頼りにされるリーダー的なところがありました。ジーパン(ジーンズ)論議になると、断定的にLeeのブーツカットが一番で、それ以外のスリムなどはくのは“百姓”あつかいでした。私はなぜか彼の言葉が頭に刻み込まれそれから何十年もの間、Leeのブーツカットが一番だと思い続けました。働いていた日本レストランの辺りはグリニッチ・ヴィレッジといわれ、ワシントン広場に近く、マンハッタンでは低層の建物が並ぶ地区ですが、バーやレストランが多くあり、すぐ近くに、日本に行けばフルートの神様と呼ばれる世界的に有名なフルート演奏者がさりげなく演奏に来るバーがあるというのでアミーゴについていったことがあります。「ニューヨークではこうだ!」と、フルートの神様が演奏する横でアミーゴは自慢げにいいましたが、有名女優岩下志麻さんとお話ができるというのでついていったときも、どういう知り合いなのか、本物の彼女を囲んでの5、6人での集まりでした。
 本人は話さなかったのですが、アミーゴは学生運動をやっていたと誰かから聞きました。恐らくリーダー格の動きをしていたのかも知れません。単なる想像ですが、彼は本来優しい気質だから学生運動が過激化して疑問を感じ日本を脱出したのかなと思います。私たちが学生のころ、1970年に日米安全保障条約が改正されるというのでその2年くらい前から「安保反対」運動が引き金で学園紛争が過激になり、私の大学も反代々木系といわれた革マル派中核派を中心とする一部過激な学生に校舎が占拠・封鎖されました。私は授業がなくても大学にはよく顔をだしていたのですが、ある夏の日、大学へ行くと、大学自治会を運営していた代々木系の民主青年同盟(民青)のひとりから、「これから実力で封鎖解除するので体育会のひとは中心的に参加してくれ」、と頼まれました。飛んで火に入る夏の虫とはこのことで、断りたかったのですが「体育会は中心的に」、といわれたのが体育会のヨット部員として少し引っかかり、ほんの成行で参加してしまいました。角材とヘルメットにタオルと軍手を渡されましたが、無防備な半袖の薄着で屋上付近から飛んでくる投石を受け顔や手・腕が打ち身だらけになり、消火用のホースで水をかけられ全身ずぶ濡れになりました。夕方、封鎖を一部解いて校舎内に入るも、相手は少人数とはいえ訓練を積んだ戦士たち、こちら側は寄せ集めの烏合の衆でした。封鎖側50名に対し解除側300名以上といわれましたが、日が暮れると照明がないので真っ暗になり、火炎瓶の燻る臭いや笛を吹いて規則正しく行動する戦士たちの動きにおびえながら恐怖の一夜を過ごし、朝5時、大学側が警察に要請したので機動隊が突入するとの情報で急いで逃げないといけなくなる始末でした。打ち身だらけの湿った身体で近くの喫茶店に入り食べたモーニングセットは平和を満喫させるものでした。
 機動隊の突入であっさりと封鎖は解除され、授業が正常に戻りました。私は学生運動に対し当初からさめた目で見ていました。正しい正しくないは別として大衆を離れた運動は何の成果ももたらさないと感じていましたから。しかし、この学園紛争の結果、改善されたこともありました。例えば、就職について、以前は一流企業からの要望人数に対しては、学部長や主任教授が成績や好みで事実上割り当て決定していましたが、これは本人と企業の間で自由に決められるようになりました。私は2年間の海外遊学から大学4年に復学すると、ポルトガルで1年間働いたという理由からポルトガル語講座の初級を飛び越え中級を取りました。しばらく授業にでましたがあまり興味が持てず、卒業に必要な単位ではないのですぐに途中からでるのを止め、期末の試験も放棄しました。ところが、卒業するときにもらった成績表で唯一の優がポルトガル語中級だったのは皮肉なことでした。これは学園紛争の結果とは関係はないと思いますが。
 ニューヨークでのウェイターを3ヶ月でやめスペイン語圏のメキシコに寄ってから帰国することにしましたが、アミーゴからメキシコシティの宿泊はCasa de los amigos(カサ・デ・ロス・アミーゴス、友達の家)というユースホステルが絶対にいいと断定的に勧められてその住所をメモに控え、彼の言葉に影響されダークブラウン色の皮のダブルのロングコートとハイヒールのブーツ姿という自己流のニューヨークファッションでメキシコシティに向け真冬のニューヨークを去りました。因みに、このときのズボンはジーンズでなく厚手で茶色のブーツカットでした。今から考えるとジーンズでLeeのブーツカットの方がダークブラウンのロングコートにはよく合ったと思いますが、アミーゴに少しだけ抵抗したかったのでしょう。

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♪ アミーゴって、ほんとはすごいことをやってきたひとなのかな ♪