最初のヨーロッパドライブ旅行

 マドリッドに駐在して家族が一番楽しみな話題は夏のvacaciones(バカシオネス、休暇)にどこへ旅行に行くかでした。スペイン人は夏のvacacionesのために1年を働くといわれていますが、会社のスペイン人スタッフは夏の3ヶ月間に交代でキッチリ4週間休暇を取り、有難いことに日本人駐在員も2週間休暇をとるのが伝統でした。
 スペインのcolegio(コレヒオ、小中+高校の一部)は公立・私立にかかわらず学費は教科書代くらいで殆ど無料でした。一方、会社の教育手当ては小学生から支給され、私たちの場合、初めは私立の幼稚園に通わせ、小学校は高い学費の日本人学校英米系の学校ではなくスペインの私立学校に入れましたので、初めの数年間は教育費が重かったのですが子供たち二人がcolegioに通い始めると教育手当てが教育費を上回り少し楽になりました。そんな訳で、夏のvacacionesも最初の4年間はスペイン国内2回とイベリア半島内のポルトガル2回でしたが、5年目に思い切ってフランス→スイス→イタリアを車でドライブ旅行することにしました。
 当時流行していたのが、マドリッドからヨーロッパを車で旅行する場合、高速道路網が集中するパリまで夜行列車を利用するのですが、車を列車の専用車両に乗せていく方法です。すでにjornada intensiva(ホルナダ・インテンシバ、集中労働時間制)の期間に入っていた7月最後の金曜日、午後3時の定時にその日の仕事を終え、急いで帰宅すると準備していた旅行用大型トランク2個を車のトランクに詰め、自宅から5分くらいのところにあった北方面行きChamartín駅裏手のcoche cama(コチェカマ、寝台車)と呼んでいた自動車を運ぶ列車の受付場まで行き車を引き渡しました。さあ、いよいよ午後18時発の夜行列車で2週間のヨーロッパ旅行が始まるのでした。最初の楽しみは何といっても食堂車でのディナーです。7月のスペインは夜10時近くまで陽光が残るので車窓から移り変わる景色をゆっくりと眺めながら食事を楽しむことができました。
 終着駅のパリには翌朝6時ころ着き、車の引渡しを受けるまで1時間くらいかかりますが、それからパリ観光が始まります。パリでは、初めにマドリッドに駐在しパリへ転勤した先輩の奥さんが案内してくれました。マドリッドに来てから結婚して呼び寄せた、先輩とは一回りも年下の若い奥さんでした。月並みですが、凱旋門、エッフェルタワー、ルーブル美術館を見物してシャネルショップで買物、日本のラーメン屋さんで昼食をとり、それから郊外のベルサイユ宮殿を見物しました。実は、このとき手のひらと足のひらに周期的に小さな透明の斑点がいくつもでてきて膿となりそして茶色く固まり、最後に皮が剥がれる症状がでて、マドリッドの皮膚科の先生から強い薬だがこれしかないといわれて使っていたのがスイスロッシュ社製の飲み薬だったのですが、これを服用すると全身の表皮の一番外側がなくなりまた再生するということを繰り返すみたいで、表皮がない状態だと顔や全身が赤みを帯び、手や足の皮が薄くなるので車のハンドルを握るのも少し痛く、全身の体重がかかる足のひらはとても痛くて歩くのが苦痛な状態で、まさに苦痛と戦いながらの観光でした。宿泊は料金が割安なパリ西部の郊外都市サン・ジェルマン・アン・レーのガーデン・ホテルを予約、夕刻に着くとすぐに夕食時間でした。ここでの夕食はいまでも忘れられません。というのは、フランス語のメニューがわからず、スペイン語や英語からの類推でとことん苦労して注文はしたのですが、食べ終わったころ暇になったウェイター二人が何たることかスペイン語で雑談していたのです。二人はガリシア出身のスペイン人でした。この経験のあと、ヨーロッパを旅行してホテルやレストランではスペイン語が相当な威力を持つことがよくわかりました。
 翌朝、次の目的地スイスに向けサン・ジェルマン・アン・レーを後にし、パリのシャンゼリゼ通りから少し入ったところにあった日本のパン屋サンジェルマンに寄り、昼食用にカレーパンを買い込んでから出発しました。これ以降、パリに夜行列車のcoche camaで来ると必ずサンジェルマンのカレーパンを買って出発するのがお決まりのパターンとなりました(日本に帰国してからサンジェルマンが閉店したことを知ったときはほんとうに残念でした)。
 パリからスイスのベルンへ向かうと途中から高速道路をでて一般道に入ります。フランス人はイギリスを奇妙な国と呼びましたが、私にとってはフランスのほうが奇妙に見えます。日本にはない発想の一つに、フランスの一般道には3車線のものがあるのです。真ん中の車線は追い越し車線ですが、どちらの方向からも使えるので安心して追い越しに使えるわけでもありません。また、自動車のフロントライトはフォッグランプのように黄色です。スペインにいても夜間はフランスから来た車はすぐにわかりました。スイスの宿泊地はグリンデルヴァルトでロッジのようなところに2泊しましたが夜になると大きな蜘蛛がでたので子供たちは嫌がりました。しかし、晴天に恵まれ、この町の眺めは最高に綺麗で、撮った写真がすべて絵葉書になるようでした。登山列車は車窓からの風景に心が安らぎ、途中駅がユングフラウの雪原だったりして素晴らしい感動を与えてくれました。私にとっては乗り物から離れる道のりが苦痛との戦いではありましたが。
 スイスからイタリアに入ってすぐの商店でスペイン語ポルトガル語を混ぜながらオレンジジュースを頼みましたが、出てきたのはトマトジュースの色をしたものでした。何でこれくらいの単語を取り違えるのだろうと文句を口にしながら飲んでみるとオレンジジュースの味がしました。いまでは日本でもよくお目にかかるブラッドオレンジジュースだったのです。ミラノではミラノ支店に予約してもらったホテルに泊まりましたが、ホテルから歩いていける近くでたまたま入った海産物レストランのトマトソース味の魚介類スパゲッティが最高に旨くピザも極上でした。生きている蟹や海老を目で見て選んで料理してくれました。私たちはこのレストランが大変気に入り、ミラノは2泊したので2度このレストランへ行きました(何年か後にオーストリアからミラノに立ち寄ったときも、このレストランのディナータイムに何とか間に合うように車を走らせてきたのですが、改装中で弊店だったのには全身の力が抜けるほどがっかりしました)。
 ミラノからはピサへ行き斜塔を登り、フィレンツェに2泊して美術館巡り、そしてローマへ。イタリアの高速料金は高いのですが、走ってみてわかりました。凄い山脈の間を走るのです。建設費が高かったのでしょう。ローマは3泊、バチカン市国古代ローマの遺跡巡り、何れも痛い足を引きずっての観光でした。そして1日は日帰りでナポリより少し先のポンペイ遺跡見学でした。ヴェスヴィオ火山の噴火で一日にして廃墟となった古代ローマ時代の都市の再現で、歴史ロマン好きの私にとって非常に興味深い対象なのですが、とにかく足が痛くてじっくり観れないのが残念でした。ポンペイからの帰り道、ナポリに寄って本場のナポリタン・スパゲッティを食べてからローマに向かいました。ところが、ローマに着くころにはすっかり夜が更け、ローマ市街への出口を間違い、通り過ぎそのまま西の方角へ行かざるを得なかったのですが、10キロ以上走りやっと一般道に出ることができました。そこは街灯が全くなく真っ暗で標識は何も見えなかったのでローマ方面へ通じる高速の入り口がわからず、暗中模索の中、感だけを頼りに真夜中で照明のない一般道を走りローマのホテルに何とかたどり着いたのは真夜中の2時ころでした。
 ローマからニースへ移動する途中、昼食時間だったのでモンテカルロに立ち寄りました。サンドイッチと飲み物を買ってビーチに行くと、その華やかさに驚きました。まず、砂からして違うのです。恐らく人口のものでどこからか運んできたのだと思いますが、粒が直径4、5ミリのつるつるした円盤状なので、身体についても立ち上がるとすぐに落ちる心地よさです。それ以上に目を引いたのは、すぐ前を見るとファッション雑誌のトップモデルでも通用しそうな凄くかわいい美女二人がごく自然にトップレスで横たわっていたのです。このとき私たちは水着を用意してこなかったので、ビーチではひどく場違いな子供連れに映ったに違いありません。サンドイッチを食べると、再帰を心に決め、速やかに立ち去りました。
 ニースのホテルは冷房がなく暑い夜を過ごし、海岸は石ころのビーチで裸足では歩けない、イメージとは違いがっかりさせられました。マクシムを通過し、歌にも出てきたサン・トロペの町にちょっと立ち寄りましたが特に感動させられるものは何もなく、南仏の田舎町アルルに1泊しました。この辺りまでくるとスペインに近くて、闘牛やパエジャのような料理があり親近感を覚えました。そして、いよいよスペインへ入り、バルセロナからはまたcoche camaの夜行列車でマドリッドへ帰りました。夜行列車でのディナーが旅行最後の楽しい食事のひと時でした。

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