アルジェリア向けで念願のスペイン国営製鉄製高炉製品を輸出

 鉄鋼製品を担当する商社マンにとって、市況商品で価格変動が大きくメーカーが比較的小規模で状況によっては経営面でも不安が生じる電炉メーカーの製品よりも、メーカーが大企業で経営面、品質面の不安小さく比較的安定した大口の継続取引が期待できる高炉メーカーの製品を取り扱うことは夢の目標でした。

 1983年初めからリビア公団向けに丸棒で大規模な取引が始まると、リビア向け丸棒生産メーカーの輸出責任者を介して、隣国のアルジェリアに詳しいというバスク出身のひとりのスペイン人から接触があり、これまで付き合ってきた欧州系の商社が理不尽な要求を始めたので関係を解消し、私たちのリビア向け活動の評判を聞きアルジェリア市場にも興味があると思い話しに来たとのことでした。フランス語が上手い一見優男風の中年で信用はできそうな印象、バスクの血を引く私の有能な部下のスペイン人スタッフも、「信用できて使えそうだからやってみる価値あり」、との意見だったので、ロンドン支店へ連れて行って鉄鋼課長に紹介し、出来高払い(成功報酬ベース)のエーゲントとして起用することになりました。
 当時、アルジェリアの鉄鋼輸入は国営製鉄が集中的に取り扱っていましたが、エージェントの働きにより初めてロンドン支店名義で納入業者として登録され取引が開始できるようになりました。しかし、国営製鉄はスペインメーカーについては商社を介さず直接購入する方式をとっていたので、ロンドン支店は簡単な丸棒でギリシアメーカー品から取引をスタートさせ、ブラジル、ポルトガル、トルコまで供給メーカーを広げましたが、競争力があるスペインメーカー品を取り扱えないことから取引は限定的でした。また、マドリッドとしてもエージェントとのやりとりだけの関与でした。
 しかしながら、状況は変わるもので、1987年になるとアルジェリアの外貨事情悪化でファイナンスをアレンジしないと売れなくなる一方、商社の裁量でスペインメーカーも取り扱えるようになり、国営製鉄から分離して輸入窓口となった鉄鋼公社向けに邦銀(日本の銀行)ファイナンスがアレンジできスポット(単発)でしたがスペイン製丸棒3万トンの大口契約に成功しました。しかし、その後スペインの電炉業界の整理・再編が進むと輸出ドライブが減退し輸出取り扱い全体が一時的に大きく低迷しました。そして、1989年に鉄鋼公社向けにスペイン製丸棒5.5万トン成約で取引が復活、1990年にはスペイン政府によるアルジェリア向けファイナンスを利用した画期的な取引を開始、鉄鋼公社による集中購買が崩れる動きの中、新規に直接輸入を始めたパイプメーカーの向けにスペイン国営製鉄製の冷延鋼板2万トンを初成約しました。これは念願の高炉製品大口取り扱いでまさに夢の実現でした。引き続きアルジェリアのパイプペーカー向けにスペイン国営製鉄製亜鉛メッキ鋼板を成約、ホットコイル(熱延鋼板)はもう一つの高炉メーカー製のものと合わせて成約、スペイン政府のファイナンスを利用した高度な取り組みで10万トン近い高炉製品を取り扱うに至ったのでした。アルジェリアに対するスペイン政府ファイナンス供与の動向はスペイン政府の実行機関とのコンタクトを維持して情報を入手、実務的にはアルジェリア向け業務に実績が豊富なスペインにあるアラブ系銀行との協力体制を作り上げました。
 スペイン国営製鉄との取引自体が大きな目標で、取引がなくても定期的に訪問したり、輸出マネジャーをランチに招待したりコンタクトを取り続けていましたが、半製品のビレットで1983年マレーシア向けに1万トン初成約しました。スペインからのビレット輸出商内最盛期のことです。製品としては1985年、南米エクアドルにある、東京本社が一部出資する釘・ワイヤーの製造会社向けに鉄鋼線材1500トン初成約し、その後も小規模ながら取引を継続、そうした関係維持の努力がアルジェリア向けの大口成約につながったと思います。
 また、スペイン政府ファイナンスを利用して電気炉建設中であったアルジェリアの有力民間企業向けに丸棒・ビレット合わせて8.5万トンの大量成約、ほぼ同時期に東京本社のイラン向けプライベートファイナンスを利用した丸棒4.8万トンが成約するなど、鉄鋼関係全般の取り扱いがプラス方向に急変しました。私がマドリッドの鉄鋼関係を引き渡した後任者はその後経費を賄えない事情から利益が出ていたバルセロナ支店へ転勤となり、私は再度不動産と鉄鋼を兼務することになったのですが、不思議なことに、スペイン電炉の輸出ドライブ減退でマドリッドの鉄鋼取り扱いが低迷した時期は私が担当を外れた期間と重なったのでした。それでも、不動産関係の土地売却益を計上し終え、1991年になるとドル安で経費がふくらみ、スペイン政府のアルジェリア向けファイナンスが途切れることもあり、鉄鋼だけでは経費を賄えず6ヶ月半期決算で初めて赤字を経験、次の半期黒字化の見通しも立ちにくい状況となり、帰国子女となる子供たちの日本での進学の問題も考え、マドリッド駐在10年目で帰国することを決意しました。あとから思うと、念願であった高炉製品の大口成約は私のマドリッド駐在10年の最後に咲いた華だったような気がします。
 帰国にあたり、単純な商品売買でなく、開発事業のような投資事業に引かれましたし、私が帰国を決めたとき東京本社の出身部(鉄鋼の原料)ではラインマネジャーの交替ポストがすべて決まったばかりだと言われたこと、そして単純にそのとき会社で一番儲けている部が一番だとの早計な考えから、かなり無理して国内不動産を取り扱う部への異動を手配してもらったのでした。その後、異動した先で一級建築士の資格を持つひとから、「建物は、数年先に工事が完成し利用するのはその後何十年となるので、設計は常に先のことを考えて行うもの」、と教わり、私は、これまでの経験から何ら学習することなく、目先のことばかりでいかに先を考えずに行動してきたかをつくづく思い知らされることになりました。私が帰国した直後からバブル崩壊が顕在化し地価が右肩下がりに下落して行ったのです。


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