ピカソの大作『Guernica(ゲルニカ)』とバスク独立運動


 私がマドリッドへ赴任した年の前年1981年に縦3.5m、横7.8mのピカソの大作『ゲルニカ』がニューヨーク近代美術館からスペインに返還されプラド美術館別館に展示されました。第二次世界大戦の前哨戦であるスペイン内戦(Guerra civil española、1936.7-1939.3)の勝者フランコ将軍が戦後スペインに独裁政権を樹立、スペイン政府は『ゲルニカ』の返還を求めましたが、ピカソは、「スペインに自由が戻るまでこの絵を戻すこと不要」と拒否、フランコが1975年に没した後、スペインの民主化が確認されたことで『ゲルニカ』返還交渉がまとまり、作品の完成後44年の歳月を経てようやくスペインに里帰りしたのです。Guerra civil españolaは以前直訳でスペイン市民戦争と訳されていて少し意味不明だったのですが、最近はスペイン内戦が一般的です。その後、『ゲルニカ』はプラド美術館別館からマドリッドのソフィア王妃芸術センターに移されました。
 フランコ将軍はスペイン内戦の苦い経験から賢明にも第二次世界大戦には頑として参戦せず、それが彼の長期にわたる独裁政権の中でのスペイン国民に対する最大の貢献だったといえますが、スペイン内戦は、スペイン第二共和制の社会主義連合政権をソ連が支援し、フランコ将軍が率いる右派の反乱軍をファシズムのドイツとイタリアが支援するという第二次世界大戦の前哨戦そのものだったのです。ゲルニカは人口約7,000人のバスクの小都市でしたが共和国政府軍の補給路の要で、1937年4月26日、フランコ将軍の反乱軍を支援するドイツ空軍(一部イタリア空軍も参加)により史上初めての無差別都市空爆が行われました。爆撃機は爆弾投下だけでなく低空に降りて市街地に銃爆撃を加え逃げ惑う市民や家畜を殺傷するという残忍なものでした。そのときピカソはフランスにいてこの報に接し、予てよりその年のパリ万国博覧会スペイン館の壁画を共和国政府より依頼されていたので、この非道な空爆をテーマに『ゲルニカ』を6月4日に完成させスペイン館に展示してその残忍さを世界に訴えたのでした。
 1975年、フランコの死でスペインに国王を置いた自由民主主義が取り戻され、1975年11月、Borbón(ボルボン、ブルボン)王朝末裔のフアン・カルロス1世が即位、1977年に総選挙が実施されました。そして、1978年新憲法が制定され、そのとき、バスク3県(Álavaアラバ、Guipúzcoaギプスコア、Vizcayaビスカヤ)がバスク自治州として認められました。同じバスク民族のNavaraナバラは親スペイン政府派の政権であったのでバスク自治州には入らずナバラ州となりました。
 しかし、スペイン国内での自治に飽き足らず分離独立を求め続けたのが、フランコ独裁政権時代バスク語の使用禁止を初めとする抑圧に反発し1959年に結成された過激派集団オスカディ・タ・アスカタスナ(Euskadi Ta Askatasunaバスク祖国と自由)、通称、ETA(エタ)で、彼らはテロ活動を繰り返し、2006年3月に「恒久的な休戦」を宣言するまでの38年間に800人以上のスペイン人死者を出しました。

 スペイン北東部にバスク自治州の3県とナバラ州を合わせバスク民族の地域が4つありますが、ピレネー山脈を挟んでフランス側にもバスク民族の県が3つあります。ETAの活動家はしばしば国境を越えフランス側に入りスペイン当局からの追跡を逃れまたスペイン国内に戻りテロ活動するということを繰り返していました。フランス政府は自国内で民族問題に火がつくことを恐れスペイン政府に対しあまり協力的になれなかったのです。因みに、テロ活動はありませんがスペイン中央政府からの独立心が旺盛なバルセロナを中心とするCatalunya(カタルニア)民族の地域もピレネーを挟んでフランス側にも存在します。両者の民俗学的な違いは、バスク民族は言語学的にヨーロッパ系とはまったく異質で出処が分からないのに対し、カタルニア民族の場合、その言語、catalán(カタラン、カタラン語)はスペイン語とフランス語の中間に位置します。
 ETAは、休戦宣言をした9ヵ月後の12月30日にマドリッド・バラハス空港の爆破事件を起こし、2007年6月には停戦破棄声明を出して爆弾テロや銃撃事件を起こすなど、テロ活動の収束には至っていません。ETAのテロ活動は知る人ぞ知るで一部には有名ですが、スペインに10年近く暮らして身近に危険を感じることはありませんでした。もちろん、テロに巻き込まれるリスクは存在します。最初のpiso(ピソ、マンションのフラット)の近くにあった文部省が日中ETAに爆破されたとき、お手伝いさんがピソ内にいて爆発音が響き生きた気がしなかったようでした。