北欧でヒッチハイク

 デンマークの首都コペンハーゲンに着くと誰もが必ず行くという有名なリトルマーメイド(人魚姫の像)とチボリ公園だけを見てすぐにスウェーデンを目指すヒッチハイクにでることにしました。観光客が多すぎて自分の旅とは違うような気がしたからです。街はずれの国道に立つと先に来ていた私より5歳くらい年上の日本人が話しかけてきました。アメリカに4年いてヨーロッパも知ろうとやってきたとのことで、効率がいいから二人でヒッチハイクしようと提案してきました。取りあえずの目的地はどちらもスウェーデンの首都ストックホルムでした。あまり日本人とばかり付き合いたくないし、二人だけならともかく他にもヒッチハイカーがいるので効率がいいのか疑わしいと思いましたが、アメリカの事情を聞きたかったので行動をともにすることにしました。さすがに北欧、ヒッチハイクが普及していてスペインよりかなり楽に車に拾ってもらえました。それでもトラックが中心でしたが。都心から郊外まで幅広い自転車道が綺麗に整備されているのには感心しました。自転車道に限らず、郊外にでても田園風景や時々通過する町や村の美しさはとても日本とは比較にならない社会資本の豊かさを感じさせました。スウェーデンに入るには海を渡るのでフェリーに乗らなければならず、乗せてくれた車もいっしょでしたが、交通費は使わない主義に反しフェリー料金はかかりました。有名な大学があるスウェーデン第二の都市エーテボリに入ると、アメリカの彼は近くにいた学生らしきグループに安く泊まれるところがないか尋ね、なんだか交渉していました。基本はユースホステルに泊まるので彼には初めから魂胆があったのか、それが当たり、夏休みで部屋が空いているからといって大学の寮に泊めてもらえることになりました。もちろん無料です。部屋に入ってびっくりしました。外観も立派でしたが部屋の中の豊かさに、どうして大学の学生寮がこれなんだと信じられない思いでした。しかも、見ず知らずの外国人に対するこのおおらかさは何だろうと。
 エーテボリからいよいよスウェーデンの首都ストックホルムを目指し二人で道路端に立つと、ラッキー、最初に止まってくれた大型トレーラーはストックホルム行き。長い道中でしたが、この運ちゃんも英語が相当でき教育水準の高さに驚かされました。ストックホルムにつくと地下鉄を使ってユースホステルへ向かいましたが、有事の際には防空壕になるという深すぎる地下鉄でした。しかも、ユースホステルは満員で泊まれず、やむなく安ホテルを探しアメリカの彼と同室に泊まりました。このとき、私は非常に抵抗があったのですが、習慣性はないからと強く勧められ、まあこれも経験かなと彼が持っていたマリファナを吸いました。このときの感じは、頭が冴えて周りはよく見えるというか見えすぎて懐疑的になり、目の前にいる彼が何をたくらんでいるのだろうかと疑い監視する自分がいました。
 翌朝、アメリカの彼はストックホルムで仕事を探すというのでその場で別れ、再び会うことはなかったのですが、マドリッドで知り合ったO君が連絡先を知らせてくれていたのでそのアルバイト先に訪ねていきました。元料理人のO君は、ちょっと不釣合いでしたがカラー写真のD.P.E.工場で働いていました。彼の知り合いがニューヨークの日本レストランで皿洗いとして働き始め、そのつてで近く呼んでもらえることになっているとのことでした。私も将来ニューヨークで働く場合はこのO君のつてが役に立つかもしれないと思いましたが、それが現実になるとはこのときは知る由もなかったのです。仕事が終わったあとO君が街を案内してくれました。その夜は予約していたのでユースホステルに泊まりました。港の桟橋につけた船の中がユースホステルでした。
 翌日、シベリアルートの終点、いやヨーロッパの起点、ヘルシンキを目指し、ストックホルムからフェリーでフィンランドのトゥルクへ渡り、ヒッチハイクを再開。フィンランドヒッチハイクして驚いたのはデンマークスウェーデンと比べても断然楽に早く目的地まで行けることでした。ヒッチハイクで街はずれの道路端に立ったとき出合った何人かと軽く声をかけあい、同じ目的地のユースホステルまでどちらが早く着くかを競争しましたが、ドイツ、イギリス、スイスなどヨーロッパ出身者には必ず勝ちました。ただし、たまにいる若い女性のヒッチハイカーには絶対負けましたが。日露戦争でアジアの小国日本が陸戦、海戦で大国ロシアを撃退したことで、それまで永年ロシアの支配に苦しめられてきたフィンランドが独立を推し進めることができたという背景があったのですが、そんな事実を知らない若い世代も含めフィンランド人の間には親日感が溢れているように感じられました。外見は西洋化していても言語学的にはフィンランド人はアジア系なのです。フィンランド語は他のヨーロッパ語とは言語の構造がまったく異質で、フィンランド人のルーツはアジアから来た民族であることが分かるのです。西ローマ帝国の滅亡につながる紀元後375年のゲルマン民族大移動の原因となったのがフン族の西方への移動(侵攻)ですが、このアジアの勇敢で強力な騎馬民族フン族フィンランド人は関係ないようです。フィンランドのことをフィンランド語でSuomiスオミ)と言い、フィンとフンが似ているようで無関係です。
 フィンランド西部の人は血の混じりがあってか外見はヨーロッパ人と変わらない人が多く英語もよく通じます。一方、東部に行くとアジア的な顔つきをした人が多くなり英語が殆ど通じないのです。しかし、東部の人のほうが一層親日的でした。これはヘルシンキから乗り継ぎでフィンランド東部の町を目指したときのことですが、姉妹のような若い女性二人の乗用車が止まってくれました。女性ドライバー自体がまだ少ない時代でしたが女性ドライバーがヒッチハイカーを拾うことなんてまずなかったのです。これが最初で最後でしたがフィンランド東部では起こったのです。彼女たちはにこにこしているだけで英語がまったく通じず会話はできなかったのですが、行き先の地名だけはわかったようでした。分かれ道で降りるときも名残惜しそうにしてく嬉しい思いでした。そしてそのとき、私が乗用車から降りて言葉が通じないのに身振り手振りで長々とやりとりしているのを見ていたのでしょう、彼女たちが大きく手を横に振って行き去ると、道路わきで止まっていた乗用車が私の横まで来て乗れというのです。乗せようと待っていたようです。人のよさそうなおじさんと小学生か中学生の息子が乗っていて、これも英語がまったく通じないのですが、どうも家に泊まっていけといっているようでした。良く分からないけれど泊めてもらうのも面白いと思いOKと意思表示して車に乗り込みました。ずっといろというような雰囲気でしたが結局4、5日泊めてもらうことになりました。このおじさんはほんの少しドイツ語ができ、どうも、このひとは鉄道員であること、16歳の娘が日本人と付き合っていたが最近日本に帰って寂しがっているので私が友達になってくれるとうれしいというふうなことでした。この人はどちらかと言うとアジア的な顔つきでしたが奥さんが西欧的で、16歳の娘さんは超がつくくらいかっこよくてかわいい娘でした。おじさんは二人を仲良くさせようとしているように、娘と私を車で湖や遊園地などいろんなところへ連れて行ってくれ、二人だけにして気を遣っていたみたいですが、当の娘さんは最近別れた日本人のことが忘れられないようで私には関心がないというかどう接していいのか戸惑っている様子でした。彼女も英語が分からないのでフィンランド語が話せないとどうにもならない世界でした。
 ヘルシンキユースホステルはオリンピック競技場の中にあり、ゆったり3泊して市内観光をしました。フィンランドでよく食べたのがスーパーで買ったにしんの燻製と硬い黒パンでした。なんでも物価が高い北欧では比較的安くて旨く、どちらも何よりも北欧的なイメージがありました。ホームレスのようですが公園のベンチで、しかし、堂々と世界を見聞中のヒッチハイカーのプライドを持って食べました。働いていないので出費をできるだけ切り詰めた貧乏旅が基本でしたが、ちょっと無理して入ったヘルシンキ駅のレストランで食べたミラノ風というのか薄くて大きなカツの旨さが忘れられません。恐らく子牛のヒレ肉か脂身のないロース部分を薄く手切りし細かいパン粉をつけて揚げたもので、ミラノ風でよくあるトマトベースのソースではなくデミグラス系のソースがかかっていてこれが特にいけました。チーズや卵は使ってないようでした。そして千切りしたポテトを黄金色によく油で炒めたものが添えられていてこれがよくマッチしていました。日本ではどこにでもあったカツがヨーロッパでは一部の日本レストラン以外ありません。日本のようなパン粉をつけた料理がなく、細かいパン粉をつけたものが一部にあるのですが、これもその一つ、ヘルシンキ駅のレストランで久々に“カツのようなもの”に出会えたのでした。