マドリッドの食料品店

 私がマドリッドに赴任した当初はel Corte inglés(エル・コルテ・イングレス、「イギリス宮殿」の意味)とGalerías Preciados(ガレリアス・プレシアドス、「プレシアス通りのギャラリー」の意味)の二つの民族系デパートに加え米系のSearsがあったのですが、高級ブランド店が並ぶcalle Serrano(セラーノ通り)に1店舗持つだけのSearsはすぐに撤退しその店舗はGalerías Preciadosに変わりました。しかし、間もなくGalerías Preciadosはel Corte inglésに買収されel Corte inglésの独占状態となりました。現在el Corte inglésは国内に95店舗を展開する大規模デパートチェーンです。たまたまオフィスのすぐ隣にあったel Corte inglés本館の地下食料品売り場は非常に大きく充実していて、私は元々mercado(メルカド、市場)やデパートの食料品売り場が大好きで、土曜日にはよく家族揃ってこの食料品売り場へ車で出かけました。またこの本館3階にはワンランク上の高級食料品ばかりを揃えた売り場もあり他ではなかなか手に入らない珍しい高級食材を置いていたので私のお気に入りの場所でした。
 しかし、デパートでの食料品の買い物は車があってもpiso(ピソ、マンションのフラット)に着いてから自室までが面倒な手荷物になるので特殊なものだけにしてできるだけ手控え、日常的には自宅近くの食料品スーパーでの買い物が主体でした。スペインでは外国商社の駐在員夫人が食品スーパーの袋をいくつも持ってピソを出入りするのはあまりいい姿ではなかったのです。マドリッドでは2度引っ越したのですが、最後のところが一番長く、そのピソから歩いてすぐ近くにSánchez Romero(サンチェス・ロメロ)という東京圏の紀伊国屋やセイジョウ石井のようなちょっと高級な食料品店があり、通常、レジで支払いを済ませた後買ったものを自宅まで届けてもらいました。店が昼休みになる午後2時の30分前までに買い物すれば、店に雇われているchicos(チコス、ボーイ)と呼ばれる少年が何人かいてチップを払うのですが2時までに届けてくれました。当初マドリッドには大根はなかったのですが、Sánchez Romeroはいち早くオランダ産の立派な大根を置くようになりました。車で行くちょっと離れた距離にあったSánchez Romeroの別の店では、冷凍庫で牛肉や豚肉の切り身の塊りを表面だけ少し凍らせハム切り用スライス機で日本風に薄切りにしてくれました。肉の薄切り機は日本独自の特殊仕様で、上から押さえミリ単位で送り出す機能がついており、普通のハム切り用のスライス機では肉の塊は柔らかくて薄く切れないのです。脂身が入った和牛のような牛肉が入荷すると「SUKIYAKI肉が入った」と自宅に電話もらうようにしていたので、その時はまず現物確認に行きよければサーロイン4キロ、豚ロース1キロくらいまとめて薄切り加工を頼み、出来上がったらもう一度引き取りに行き、持ち帰ると300グラムずつ程度にラップして冷凍庫にストックしました。
 スペインのメルカド(市場)には、姿かたちがそのままの皮を剥いだ子羊やウサギが並べられ日本にはない独特の雰囲気があって興味深く、また野菜、果物、魚介類も驚くほど豊富に積まれてあり、とにかくダイナミックで見に行くだけでも大好きでした。バルセロナには常時マグロの大トロが買えるメルカドがあり、出張して時間に都合がついたときにはわざわざ立ち寄りマドリッドまで買って帰ったものでした。
 私は先輩から教わった「冷蔵庫でつくる塩鮭」を自分なりに改良してよく実践しました。鮭の季節になるとメルカドの魚屋で生鮭を3キロ程度に切ってもらい、うろこ取りと二枚に開いての中骨取りを頼みました(スペイン人は通常輪切り)。日本と同様威勢がいい魚屋の売人たちは刃の幅が巨大な包丁を上手に使い、二枚に開いて中骨を殆ど身が付かないほど綺麗に外しました。それはいつも実に見事な手さばきでプロを感じさせました。これを持ち帰り、小骨を丁寧に抜いてから荒塩を振り布巾で包み更に何枚もの新聞紙で包んで冷蔵庫に入れ、水分がたくさん出てくるので新聞紙を毎日取替えます。そうすることで4〜5日すると日本でもなかなか味わえないくらいに脂がのって美味しい塩鮭を作ることができました。日本に帰って比較するとデパート食料品売り場の最高級の塩鮭の品質に相当しました。その魚屋の生鮭がいつも新鮮で脂がよくのり特別に高品質だったからだと思います。
 マドリッドの食料品価格は東京と比較して一般に相当安いと感じましたが、この鮭は決して安くはなかったのです。外国人、特に海外にいる日本人が陥りやすい間違いに、『同等の条件のもので比較しない』ことがあります。この鮭の価格もその一つで、品質を考えれば日本より相当安かったと思います。これと似たことで、当初、イカの価格はマドリッドの方が東京より高いと思いました。東京ではスルメイカが普通でしたが、マドリッドではイカといえば普通ヤリイカ(calamares)で、「calamares」を西和辞典で引くと単に「イカ」と訳されることが多く、ヤリイカの認識がなくて間違ったのです。しかし、正しくヤリイカの価格で比較するとマドリッドがずっと安かったのです。
 言語学では、生活とのかかわりが密接であればあるほど言葉が細分化され総称語がない場合が多いとされています。例えば、日本語では「イカ」という総称語がありそれを形容する語が加わって「ヤリイカ」、「ホタルイカ」、「モンゴウイカ」などとなりますが、スペイン語では総称語はなくそれぞれ「calamares」、「chipirones」、「sepia」となります。エビ、カニなどの魚介類、牛、豚、羊、鶏などの肉類はスペイン語が性別や成長段階も含め細分化されているのでスペインの方が遥かに密接で、逆に、日本語の「稲」、「米」、「飯」は、スペイン語では「稲」と「米」が総称語の「arroz」で、「飯」は「arroz cocido」だから日本の方が密接です。魚類は日本語、スペイン語どちらも総称語と細分化された言葉があり密接度は概ね同程度といえそうです。
 自宅では和風の食事が主体だったので、日本の実家から調味料や海苔など和食の一部食材を船便で定期的に送ってもらっていましたが、欠かせないのが日本食材のお店、東京屋でした。凡そ日本で買う値段の3倍でしたが重宝しました。そして、忘れられないのがスペイン人を奥さんに持つ日本人の画家さんが始めた豆腐屋さんの昔ながらの製法による豆腐の旨さでした。絵画だけではまだ食べていけなかったらしく、確か実家が豆腐屋さんだったことからマドリッド郊外で豆腐をつくり始め、初めのころは失敗作もありましたがそのうち日本でも食べたことがないような美味しい豆腐が出来上がりました。その後、年月を経て大きな事業に成長したようです。