リスボンで初めての契約が成立

 クヴィリャンのジュゼ・アルフレドの会社に対しては編み機の輸出取引が流れ始め、また、当時ポルトガルでは厳しい輸入制限品目だったミシンについても彼が何とかサンプル輸入のライセンスを取得、有名ブランドのジャノメミシンのサンプル輸出ができて新たな輸出取引の可能性が出始めていたのですが、これらはいずれも以前からあったもので、私には新規セールスを開拓することが求められていました。 しかし、誰からもなかなか相手にしてもらえず、1年契約なのに着任後半年近くが経っても契約ゼロの状態が続き、折角素晴らしいチャンスを与えてくれた会社に対し申し訳ない思いが募る日々を送っていました。私が伊丹空港から羽田経由リスボンへ赴任するとき、社長自らが空港に見送りに来てくれていて、しかも重い旅行カバンを私の手から取り上げ足早にチェックインカウンターまで持っていってくれました。流石!!小さいとはいえ社員50名余りの貿易商社を一代で築いた、偉くなる人とはこういうことなんだと教えられました。そんなわけで、とりわけ社長に対して期待に応えられず申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
 ポルトガルは小さなマーケットで、初めは大手の輸入会社をターゲットに電話しアポが取れればすぐに会いに行きました。ユーラシア大陸の反対側から来た、気張って知ったか振りしていても少年のように見える若い私に興味を持ったのか食事に招待してくれるマネージャーもいましたが、商談は別物で何にも決まらない状態が続いたのです。因みに、取り扱える商品は、価格は安いが普通の日本人は聞いたことがないブランド名の輸出専業メーカーのものばかりでした。
 そのうちに、街のおもちゃ屋さんのような小さな店がどこでも電気製品などの輸入をしていることがわかり、電話帳にあるそれらしきところへ片っ端から電話攻勢を掛けているときある情報を得ました。それがたまたま私の事務所と同じ通りにあった本当に小さくていつもゴタゴタしているおもちゃ屋でしたが、大きなロットで電気製品を輸入しているらしいというので、そこへ何度も足を運びました。初めは無愛想でまともに応対しない頑固親爺のような社長でしたが、少しずつ打ち解けていき、とうとうアタッシュケース入りのラジオカセットを1,000セット買ってくれたのです。初契約でした!1セット30ドル位だったから約3万ドルの契約、1ドル360円の時代ですから円価で1千万円強。粗利益5%として約50万円。当時、大企業の新卒初任給が3〜4万円程度だったときリスボン往復のエコノミークラス航空券が50万円もしました。この分だけでもやっとお返しができたかと思ったものです。
 契約が決まると本社の専務が他国への出張のついでにリスボンへ立ち寄ることになり、その機会にこの気難しそうな社長さんが契約成立を祝してFolkloreという大きなショーレストランに招待してくれました。夫人を伴って現れたその頑固親爺は、レストランではにこにこして商談以外の話をすると少し気品があるようにも見え、まるで別人でした。料理も美味しかったですが、このとき「商売って面白いな」と思いました。因みに、写真奥壁際のテーブルにいる裕福な家庭らしいかわいい女の子が当時は珍しかった日本人が気になったのか私の方をずっと見ていました。私はその視線が気になっていたのですが通訳が忙しくて...。