スペイン語との出会い

 高校卒業後、外国語大学のスペイン語科へ進学することになりましたが、高校時代の私は同じクラスの女生徒に話しかけることもできないくらい気が弱くて対人関係に自信が持てず、将来の職業を思うと人が相手ではなく物が相手でないととても勤まらないと考え、物質や機械が相手の職業を想像して理系志望でした。家庭の経済的事情から仕送りはできないと言われていたので自宅から通える大学は限られ、また、浪人するのも経済的には問題なしとはいえない状況でしたが、気が弱いのとは別物で周囲には「絶対受かる」と豪語していた一期校工学部受験に失敗しました。その状態で次に受験した文系の外国語大学が合格しやむなく進学したのでした。スペイン語を選択したのは、英独仏はどこの大学でもやっているのでその次はという程度のものでした。
 外国語大学に入学はしても、私は翌年京都の大学の工学部を再受験するつもりでいたのでスタートからスペイン語に対する勉学意欲は低調でした。決定的だったのは、体育会ヨット部に入ったことで、毎週金曜日夜から合宿する週末の練習疲れや時々平日も含めて強行された集中練習でなおさらスペイン語授業とは疎遠になりました。一方、ヨット部での活動を通じ対人関係について自分にもやれるのではないかという気持ちが芽生え始め、大学を再受験して工学部へ転向する理由が弱まり、逆に、大阪弁の「気があかん」という弱点が嫌でそれを何としても乗り越えようとする気持ちが強まっていきました。大きな転機は3年生のとき、資金集めのためヨット部として例年やってきたヨット部主催ダンスパーティの責任者となったことです。バンドとの契約、会場の確保、パンフレット・パーティ券の印刷、免税のための府税事務所への手続きなど、これらすべて人が相手の交渉ごとをやり遂げ、近隣の大学、女子大、女子短期大学を殆どすべて回り学生自治会や各クラブ部室へ入り込んで主に女子学生を対象にパーティ券を売りまくりました。男女比率は極端な女性過多でパーティ自体は女性にとって不満が残るものでしたが収入面では大成功させることができたのです。それまでの自分には到底考えられないことでした。結局、ヨット部中心でスペイン語とは希薄な関係の大学生活を送ってしまいました。スペイン語の子音「r」は、単語の最初にあるときと「n」の後に来るとき、そして「−rr−」のように二重の場合に「巻き舌」で発音しますが、実は、いくら練習しても私にはこの「巻き舌」ができなかったのです。このことも初期段階から私のスペイン語に対する勉学意欲を減退させる大きな原因でした。
 出席不足で英語を落とし3年生へ仮進級した私は、出欠をとる授業には落第しない程度に最低限出席するようにしていましたが、そんな中に宣教師のスペイン人講師によるスペイン語会話がありました。滅多に出席しないのにいつも真っ黒に日焼けした顔で遅れて来る私は教室に入るやいなや必ず呼び止められ質問されたのですが、質問の意味や答えがわからないので宣教師講師が諦めるまでいつまでも無言でした。スペイン語文はちょっとした決まりを覚えれば意味はわからずとも必ず発音して読むことはできるのですが、教科書を読むようにいわれても詰まってばかりで読むことすらできないレベルでした。
 私自身、3年生になるのにこんなことでは社会に出ても外語大出身者として格好がつかないと自覚し、そして、気が弱くて対人関係に自信が持てないという弱点を大きく乗り越えることが最大の目標であったので、4年生6月のヨット部活動最後となるインカレ戦が終わったあと、休学してナホトカ−モスクワ経由北欧へ行き働いて資金を作り、そこからスペインへ移って現地でスペイン語を勉強する計画を立てました。家庭教師3件かけ持つとともに当時大阪では有名な高級ホテル内に新しく開店した東京の老舗和食レストランで夜ウエイターをして渡航資金稼ぎを始めました。丁度そんな時、大阪の小さな商社から期間1年間のポルトガル駐在員の求人があることを聞き私はその話に飛びつきました。私はインカレ戦が終わる6月まで待ってほしいとその商社の社長に強く要請しましたが、「責任感が強いな」、と好意的に受け止められただけで軽く一蹴され、ヨットシーズンが始まる3月から、ヨット合宿ではなく業務研修のため会社へ通勤を開始することに。そして2ヶ月半の研修のあと、5月にリスボンへ出発することになったわけです。因みに、この研修期間に、ポルトガルでの最重要取引先社長ジュゼ・アルフレドが大阪へ出張で来ることになり、スペイン語は相当できるとの理解で採用された私は一瞬焦りましたが、「ポルトガル語はまだわかりません」で通そうと思っていたところ、彼は英語、フランス語に加えスペイン語も流暢。いきなりスペイン語で話しかけられ、まともに応対できずとことん困り果てました。同席した社長が、「まだ慣れないからな」、と極めて好意的に受け止めてくれ命拾いした思いでした。
 リスボンでのアルバイト駐在員を予定通り1年間で終えマドリッドに移り住んだ時、アメリカ映画「Love Story」の主題歌をAndy Williamsがスペイン語版でも歌い、これが大ヒットしてマドリッド中いたるところ朝から夜中までこの歌声が響き渡っていました。「¡Qué difícil es secar la fuente inagotable del amor; contar la historia de un momento de placer; reír alegre cuando siente el corazón un gran dolor! ...  なんと難しいことだろうか 尽きることがない愛の泉を枯らすのは つかの間の喜びの物語を話すのは 大きな痛みを心が感じるとき明るく笑うのは...」で始まるスペイン語の歌詞の甘くて力強い響きに、私は衝撃を受けるほどに魅せられ引き込まれたのです。この時私は、最初に接した高齢のスペイン人教授と講師の話すスペイン語とは全然違うスペイン語の美しい響きに圧倒され、初めてスペイン語に魅力を感じました。私にとってのスペイン語との真の出会いはこの瞬間でした。
 スペイン語ポルトガル語の違いは日本語の標準語と大阪弁の違いほどの差もない程度で、リスボンで独学してポルトガル語がある程度話せるようになっていた私は、マドリッドに移るとポルトガル語力が殆ど瞬時にスペイン語力に自然に切り替わり、急速にポルトガル語が話せなくなりました。タン・タン・タンとテンポよく明快に話すスペイン語に対し、母音を閉じて発音する聞き取りにくい本国ポルトガル語は、抑揚が大きいイントネーションの話し方も都会的でなく総じて少し暗く重苦しい印象がして、スペイン語から入った私には話しづらい言語でした。スペイン語を話すようになって言語のストレスのようなものから解放された気がしたものです。

[追記]
 このときマドリッドでは資金を大切に使わないといけなかったので、食事はランチにマドリッド大学の学食によく通いました。安いのにパンとスープにメイン1皿そして簡単なデザートもついていました。すべてボリュームがあり、ペプシコーラも当時日本では200ccのボトルだったのが500ccくらいあるボトルで巨大に見えました。学食で食べれば1日分のカロリーは充分で、夜はもっぱらPuerta del Sol(プエルタ・デル・ソル、太陽の広場)の裏側界隈の屋外バルへ行き、決まって注文したのが安くて旨いGambas a la planch(ガンバス・ア・ラ・プランチャ、芝海老の鉄板焼き)またはMejillones al vapor(メヒジョーネス・アル・バポール、蒸しカラス貝)、とcerveza de caña(セルベサ・デ・カニャ、生ビール)でした。
Gambas a la planchは鉄板(フライパン可)にバージンオイルを敷いて芝海老を焼き荒塩を振りかければできます。Mejillones al vapor、はカラス貝を蒸してレモンを振りかければできる簡単なものですが、日本では新鮮な材料が手に入らないかもしれません。