車があれば行動範囲が広がるのに!

 ポルトガルへ出発する前、私は大学の学生課へ休学届けの手続きに行きました。大学紛争の嵐が吹き荒れた後という事情もあったのかも知れませんが、大学側は、「休学期間は原則2年間が限度ですが復学の意志さえ伝えていただければ何年でもいいですよ。」、という非常におおらかなものでした。授業料は当時でも破格に安い半年6,000円でしたが、休学期間はもちろんその支払いは不要です。それを聞いて、ポルトガル駐在員の契約期間は1年でしたが、私の心積もりはポルトガルのあと専攻語のスペインへ行き、休学は最低3年間と決めました。
 都市交通機関が発達した日本の大都会で育つとわからないことですが、人口100万人足らずのリスボンに行くと、タクシーを待つことのイライラから、運転できないこと、車がないことの不便さを痛感することになりました。週末にちょっと郊外へ出かけるにも車がないと話しになりません。車があるのとないのでは行動範囲が全然違ってきます。少しでもダイナミックな思考ができていれば、すぐに自動車学校へ行き運転免許を取って中古車を買えるくらいの収入はあったのに、リスボンの自動車学校へ通いだしたのは、結局、後任者にリスボンでの業務を引き継ぎフリーになってからでした。今から思うと、働いているときはなかなか契約が取れないことから自分でプレッシャーを作り気持ちに余裕が持てなかったのです。仕事をやめたとき、手元に1,600ドルの現金と帰りの航空券が残りましたが、当時の為替レート1ドル360円で換算すると576,000円、大手商社の初任給が4万円台の時代でしたから、中古車くらいは楽に買えました。それでも収入がないと車は持てないと考えマドリッドで働きながらスペイン語を習得することにしました。
 JALマドリッドまでの運行便はなかったのですが事務所を置いていたので、私はポルトガルの後はマドリッドJALでしばらく働こうと考え、リスボンから電話してJALの人事担当者との面会の約束を取り付け、マドリッド空港に着くとすぐにJAL事務所の人事担当者を訪ねました。このころは気が弱い自分を乗り越え相当行動的になっていたのです。私は内心1、2年くらいしか働くつもりはなかったのですが、話の前提はあくまでも中長期でないといけないので、その人事担当者は、「あなたの経歴なら大学に戻ってJALを受けてください。その方が遥かに有利ですし、現地採用では採用条件が全然劣ります。」、と言い、採用できないことはないけれど私にとってあまりにも不利だと頑張ったので諦めざるを得なくなりました。
 そこで、賃金が安いスペインで働くことを断念し、私は漠然と、当時賃金が世界一のニューヨークで半年くらい働き、その資金で1年かけて中南米を踏破する計画に切り替えました。もちろん、その場合、車は諦め、定住場所を持たない放浪者としてですが。マドリッドで初めてヒッチハイクを経験しましたが、デンマーク、スェーデン、フィンランド、更に、メキシコでも車代わりになりました。そして結果は、幸運にもニューヨークでは到着翌日から日本レストランでウェイターの職につけましたが3ヶ月間でやめ、中南米はメキシコ1ヶ月間だけにして帰国することになり、大学の休学は2年間で終わりました。
[後日談]
 私は、ポルトガルで運転免許をとったもののスペインで車を買えなかったので、日本に帰国してから日本免許に切り替え完全なペーパードライバーになっていました。それでも、6年後の結婚式のとき、姉に大阪の実家の両親を連れて東京まで車で来てもらい、新婚旅行にその車を借りて軽井沢、京都へ行き大阪で車を返す計画にしました。先輩の車で、助手席に乗ってもらい空き地で1、2度練習しましたが、先輩は必死な顔つきでサイドブレーキを握りっぱなしでした。坂道発進ができず不安があったものの予定通り車での新婚旅行を実行しましたが、中央高速の見通しがいい下り坂でネズミ捕りというのに引っかかり一発免停になりました。点数制など日本の特別なルールを何も知らない私は日本での車の運転の厳しさを思い知らされたのです。

【ココのつぶやき】

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