スペインの歴史 〔 III 〕 − スペイン王国の盛衰とオランダそしてイングランドの台頭

【ヨーロッパ王家のサラブレッド、カルロス】 カトリック両王、イサベル1世とフェルナンド2世の娘で後にカスティージャ女王となるフアナと、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世とブルゴーニュ公マリーの息子でブルゴーニュ美公と呼ばれたフィリップが結婚、その二人を両親として生まれたカルロスは当時のヨーロッパ王家のサラブレッドというべき血筋でした。
 カルロスは1516年、母方祖父フェルナンド2世の死去でスペイン王カルロス1世となりスペインだけでなくナポリ、シシリア、サルディニアそしてスペイン領アメリカという広大な領土を継承、更に、1519年父方祖父マクシミリアン1世が死去するとオーストリアをはじめとするハプスブルク家の領土を継承し神聖ローマ帝国皇帝に選出され翌1520年アーヘン大聖堂戴冠式でカール5世となり、スペインはヨーロッパ最大・最強で新大陸を支配する帝国として最盛期を迎えます。
 しかし、彼は神聖ローマ帝国皇位を争ったフランス王フランソワ1世との戦争に生涯を費やしオスマントルコとの戦いも重なって新大陸から大量の金銀がスペインに持ち込まれたにも拘わらずスペイン王国の財政は著しく逼迫、1556年退位してスペインとネーデルランドを息子フェリーペ2世に譲ったときは膨大な借金を残しました。このとき、父方の祖父から譲り受けたオーストリアなどの領土と神聖ローマ帝国の帝位は弟のフェルディナント1世に継承させました。皮肉なことに、カルロスのあと神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント1世となった弟のフェルナンドはスペイン生まれのスペイン育ち、一方、カルロスはフランドル(現在のベルギー)生まれで母語はフランス語、フランスとパリをこよなく愛し、マルチリンガルでもドイツ語は話そうとせず、「スペイン語は神への言葉、イタリア語は女性への言葉、フランス語は男性への言葉、ドイツ語は馬への言葉」と言ったそうです。

【フェリーペ2世のレパント沖海戦の勝利から無敵艦隊の敗北へ】  1571年、スペインがフェリーペ2世(1527−98年)のとき実質的にイスラム艦隊をレパント沖の海戦で破り地中海の制海権を得て世界最強の国家となり、1580年にはポルトガルをも支配下に入れますが、レパント沖海戦勝利から僅か17年後の1588年、同じフェリーペ2世のとき、エリザベス1世配下のイングランド艦隊と英仏海峡で交戦した諸海戦(総称してアルマダの海戦)において、海賊上がりのフランシス・ドレークに率いられたイングランド艦隊にスペイン艦隊が敗退、イングランド人はスペイン艦隊を皮肉って無敵艦隊と称し、早くもスペイン衰退の予兆となりました。
三十年戦争終結とスペインの衰退】 スペイン艦隊はその後再建され、制海権はスペインが保持しますが、ヨーロッパの情勢は、神聖ローマ帝国オーストリアに加えスペインに基盤を置くハプスブルク家の膨張を恐れたフランス・ブルボン家の対抗にカトリック勢力とプロテスタント勢力の対立、民族間あるいは国家間の対立が入り混ざった三十年戦争(1618年〜1648年)で断続的に戦争が繰り返された後、ハプスブルク家が敗退、1648年のヴェストファーレン条約以降ハプスブルク家オーストリアとスペインの衰退が始まります。この間のスペイン王はというと、フェリーペ2世の子フェリーペ3世(在位:1598-1621年)で、ハプスブルク家との近親結婚で生まれつき病弱、そして、フェリーペ3世を継いだのがその子フェリーペ4世(在位:1621-1665年)、性格善良で国民に愛され乗馬・射撃の名手でしたが、政治には半ば無関心で、ポルトガルとオランダが独立、カタルニア人の大反乱でフランスの介入を招きフランス側カタルニアのルシヨンをフランスに割譲するなどスペインの衰退が決定的となりました。フェリーペ4世は美術に関心が深く絵画などの美術品の最高傑作を大蒐集しプラド美術館の礎をつくり、宮廷画家ディエゴ・ベラスケスを厚遇したことでも有名です。
【オランダの独立と覇権】 ハプスブルク家スペインの植民地だった北部ネーデルランド7州は1568年スペインに対し独立戦争を開始し長期に及ぶ戦いの末、1609年に事実上独立を達成、神聖ローマ帝国オーストリア、スペイン、フランス、そしてスェーデン、デンマークイングランド三十年戦争で疲弊する間に、新興国オランダは造船能力で世界最大となり、世界経済・金融の中心として経済大国を実現、短期間ですがスペインに代わり経済面での覇権国となります。バブル経済の先駆けといわれるチューリップバブル三十年戦争の最中、1634年頃から投機が始まり1637年に崩壊します。因みに、歴史上オランダのスペインに対する独立戦争は80年戦争と呼ばれ、1568年から、1609年から1621年までの休戦期間を挟み、30年戦争が終結してヴェストファーレン条約で正式に独立が認められる1648年まで続いたとされていますが、1609年以降オランダは経済大国への道を歩みます。
イングランドの台頭】 一方、同時に世界制覇を企んでいたイングランドは、独立戦争時はネーデルランドを支援し、1588年、アルマダの海戦でスペイン艦隊を敗退させますが、オランダに対抗し東インド会社を設立して英蘭間で世界貿易の主導権を競い合います。1603年、スコットランド王ジェームズ1世がイングランド王を兼ねてから約100年間イングランド王国スコットランド王国は同君連合としての関係が続き、1707年アン女王のとき両王国が統合されグレートブリテン王国(これ以降「イギリス」と呼びます)となります。その間、1652年から1674年の間には三次にわたる英蘭戦争が起こり、1689年にイングランドはオランダから国王ウィリアム3世を迎え入れますが、1760年代にはイギリスで産業革命が始まり、第四次英蘭戦争が始まる1780年頃にはイギリスは経済力でもオランダを上回るようになり世界の覇権国として7つの海を支配する世界帝国へと発展していきます。
 因みに、経済的発展によりイギリスで中産階級が育ち市場に資金が溢れる状況下、the South Sea Companyの株価が数ヶ月で10倍に暴騰するなど株価が暴騰した南海泡沫事件と呼ばれるバブルが発生し崩壊したのは1720年でした。


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