私の料理人生 − 〈自己紹介〉

(料理人との出会い) 

 大学3年終了後休学してマドリッドに滞在中、マドリッド大学の学食へ何度か通った道で偶然O君と出会った。お互い畑違いではあったが、なぜか二人は意気投合し離れても互いに連絡を取り合うことを約束した。同い年の彼は高校卒業後板前の道に進んだが、4年間修行した後古い人間関係といじめが横行する世界に嫌気が差し日本を出てヨーロッパへ何かを求めてやってきていた。彼はその後ストックホルムでアルバイトをした後ニューヨークへ渡り日本レストランでアルバイトウエイターとして働いた。
 一応大学でスペイン語専攻だった私は、最初にリスボンで働いた後マドリッドへ移住したが、スペイン語圏である中南米も1年くらいかけじっくり旅行したいと考えた。その資金稼ぎに、働くなら当時賃金が世界一高く、世界一のものがいくつもあったニューヨークだと思い、比較的入国ビザが取りやすいと言われていたフィンランドへ行きヘルシンキアメリカ領事館でビザを取得した。そして、北欧旅行などで資金が底を突きかけたころ、マドリッドからニューヨークへ飛んだ。
 NYケネディ国際空港に着くと私は、即、O君に電話を入れた。幸運にも、その日本レストランで「ウエイターが一人辞めたところだからすぐに雇ってもらえる」、と聞き、そのまま空港から彼がいる日本レストランへ直行した。レストランの二階にはタコ部屋のような宿泊施設があり寝泊り食事つきの週給制ウエイターだった。

 殆どが現地人のお客さんを相手に英語を使いテキパキと有能にウエイター職をこなし、それなりに充実した毎日であったが、結局、私も人間関係の理由から3ヶ月でその日本レストランを辞め、メキシコに飛んで1ヶ月だけいて帰国した。しかし、この間、ウエイターとして働きながらプロの料理人であったO君の身近にいて彼から「料理の基本」を学ぶことができたと思っている。「料理は火加減と塩加減で決まる」ことを学んだのもこの時だった。彼は料理だけは自信があると言っていたが、実際にO君が料理をするのを見てその言葉に誇張はないと思った。日本から派遣されていた正規の料理長にうまく使われよく彼の代わりに料理もやらされていたが、包丁使いといい料理のセンスといいO君の方が数段上に見えた。この店はニューヨークでも低層建物が並ぶ下町のワシントン広場近くにあった支店で、オーナーは殆どこの店には現れなかった。いつも仕事が片付いたあとであったが、高価な客用の食材を何でも好き放題使った豪華な食事を毎日二度楽しむことができた。もちろんO君が作る担当だった。私はすこぶる料理に興味があったのでよく付きっ切りで彼が料理するのを見ていた。今から振り返っても、この時が人生で一番贅沢で美味しいものを毎日食べた期間だと思う。痩せ型の私だったが、この時撮った写真を日本(大阪)の実家に送ったら、姉がそれを見て、「頬っぺたを両手で支えにニューヨークまで行ってあげたい」と言ったらしい。
(実家で母が始めた食堂)
 私が小学生になったころ、母が女学校時代の友達がやっていた食堂付き駅前旅館へ何ヶ月間か習いに行った後、大阪の自宅を改造して食堂を始めた。その旅館は料理が旨いと定評があった。うどんや丼物の味付けは当然関西風であるが抜群だった。ざるそばや冷しうどんのタレは、今ではとりわけ高価になったムキエビをふんだんに入れ溜り醤油を使ったものでとびっきり旨かった。実際、私が作ったうどんや丼物はそれを食べた全員からいつも絶賛された。私は小さいころから材料の買出しやネギ切りなどの準備を喜んで手伝い(出前は学校の級友に出会うので厭だったが)、料理の素地はこの頃にできたのかも知れない。
ポルトガル料理との出会い)

 私が大学を休学したのは、専攻のスペイン語授業にたまたま出席した時、大阪の小さな商社からポルトガルリスボンで1年間駐在員として働く話が来ていることを聞いたからだった。すでに北欧経由スペインへ行こうと計画し何重ものアルバイトで準備を始めていた私はこの話に飛びついた。そして、リスボンでひとり1年間日本製の編み機、トランジスタラジオ、カセットテープレコーダー等の輸出ビジネスに従事することになった。
 編み機の販売先は、リスボンから300km北東のクヴィリャンという田舎町に大きな繊維工場を経営するユダヤ人ファミリーの次男坊ジュゼ・アルフレドが作った商社で、その繊維工場が生産する毛糸の販売店が編み機の販売店も兼ねポルトガル全土に何十とあった。私は日本人の顔をしたメーカーの代表として、リスボンに到着したその夜ジュゼ・アルフレドの車でクヴィリャンへ行き、そのまま1ヶ月以上ポルトガル各地の販売店まわりをすることになった。そして、その行く先々で大歓待を受け毎日各地の美味しい料理を食べまわることになった。因みに、その時ポルトガル語は殆どわからなかった。
 その後、リスボンに事務所兼住居を設営したが、ジュゼ・アルフレドが新規ビジネスを狙ってかリスボン契約社員1名採用して私に張り付けた。その2倍位年上の根っからのリスボンっ子カルロスは毎朝のように事務所へやってきた。そして昼食時になるといつも彼の小さなフィアットで旨いレストランを求めてリスボン中をまわり時間をかけたリッチなランチをとる毎日となった。平日の夕と土日はひとりでいろいろなレストランを探索してフルコースの食事。何と、毎日2度のフルコースを食べる生活に!学食でカレーライス、または中華飯屋で焼そばと餃子、ちょっと気張って海老入り焼飯を食べる程度か、あるいは、金欠で食事抜きだった貧乏学生が、いきなり駐在員給料をもらい物価の安いポルトガルで豊かなフルコース生活を体験することになったのであった。
(スペイン駐在10年間)

 料理が上手くなるには旨い料理を食べることも重要だ。その意味で私のマドリッド駐在10年はいい経験だった。当時、マドリッドの鉄鋼課は殆ど日本製鉄鋼の取引がなかったので東京本店等から依頼されるお客さんの接待も英独仏など他国出張のついでに立ち寄る観光目的が殆どでお客さんの方も低姿勢だったから、最高級のレストランの中からそのときの自分の気分・好みで自由に適当なところを選択でき、勘定はすべて依頼店持ちという気楽なものが多かった。
(↑写真は車で5分の通勤途中毎日通った風景 − リマ広場北側からみたAZCA地区)
 その中でも重厚だったのはやはりバブル期の体験だ。私は、後に老人の輸出と揶揄されたシルバーコロンビア計画の流行に先駆け、ロンドンや東京の協力を得てマドリッドに新規事業開発室を立ち上げ、地中海沿岸コスタ・デル・ソルのゴルフ場開発内別荘を数10戸確保して日本人向けに販売する事業を始めた。その他にも、企業買収、別荘開発、オフィスビル開発、スペイン村開発協力等いろいろなことを手掛け・トライした。このバブル期後半の数年間、日本企業の担当者による不動産開発の現地視察を名目とした豪華な観光出張が横行したが、私は、スペイン村開発関係出張者・訪問団や数多の観光出張者を次から次にスペイン各地の著名な不動産開発現場と観光名所、そして最高級のホテルと最高級のレストランに案内する日々をおくった。

 東京本社から偉いさんが来た時は、スペイン支店長にあたる現地法人社長の社長宅に駐在員全員が集まり、偉いさんを囲んでの内輪の夕食会を持つことが多かった。そんな時は、日本レストランの寿司の出張サービスをよく依頼したが、基本的には駐在員夫人が朝早くから社長宅に集結して戦場のごとく料理作りと戦った。一度、本社から社長一行が来た時、料理ができると評判であった私は、「社長だから一つ頑張ろう」と、天婦羅を担当したことがある。langostinos(車海老)が中心で約30人分の揚げ物は何度も油を交換し大変であったが、出来ばえは上々、「マドリッドでこんなに旨い天婦羅が食べられるとは」、と大いに喜ばれた。お付きの取締役業務部長は海老の尾っぽの先をカットしてあったのにも気づき、「一流料亭なみだ!」、とうなった。これはニューヨークでO君の海老の処理を見てからずっとそうしているもの。大変好評ではあったが、流石に30人分の料理には懲りて、頼まれてもそれ以降社長宅での料理には一切口を出さなかった。
(いつのまにか家庭の料理担当となった私)

 商社マンになってすぐ、かなり無理をしたが(即ち、月収の20倍を全額借金で)小さなクルーザーを同じ会社の3人で共同購入した。その1人は大学時代のヨット部のすぐ上の先輩でもあった。しかし、うちの奥さんと付き合い始めたきっかけはこのクルーザーだった。三浦半島のシーボニアに置いたクルーザーに彼女を誘い、洋上でもカセットコンロでカレーライスを作ったり焼き鳥を焼いたりした。結構多忙続きの商社マンの毎日だったが、結婚していつの頃からか土日の料理担当は私だった。友人やお客さんを自宅に招いたときの料理担当は、日本でもスペインでも結婚当初からいつも私だった。奥さんは後片付け担当。理由は料理の腕が私の方が上だったからか。そして、会社を辞めてからは土日が毎日に変わった。